幕末の文化

新選組の隊士一覧とは?組織と主要メンバーを解説

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新選組の隊士一覧とは?組織と主要メンバーを解説
永倉新八 肖像写真(新選組二番隊組長) / 出典: Wikimedia Commons PD-Japan-oldphoto

新選組は、幕末の京都で治安維持を担った武装集団です。ここでは組織の構成と主要な隊士を一覧で整理します。

目次

新選組の隊士と組織構成

新選組は、局長を頂点とする明確な階層を持っていました。

役職役割
局長隊の頂点。近藤勇
副長実務と規律を統括。土方歳三
参謀政治的な助言。伊東甲子太郎
副長助勤/組長各隊を率いる。一番隊から十番隊まで
監察隊内外の情報収集と探索
勘定方会計を担当

隊士の数は時期によって変動し、最も多い時期で200名を超えたとされます。池田屋事件で名を上げたのち、募集によって急拡大しました。

幹部の一覧

人物役職最期
近藤勇局長1868年、板橋で斬首。満33歳
土方歳三副長1869年、箱館で戦死。満34歳
芹沢鴨初期の筆頭局長1863年、隊内で粛清
山南敬助総長1865年、脱走して切腹
伊東甲子太郎参謀1867年、離脱後に暗殺される

組長(副長助勤)の一覧

組長備考
一番隊沖田総司剣の達人として名高い。病により1868年に死去
二番隊永倉新八維新後まで生き延び、回想録を残した
三番隊斎藤一会津まで戦い、維新後は警察官として生きた
四番隊松原忠司1865年に死去
五番隊武田観柳斎1867年、隊を離れて粛清される
六番隊井上源三郎多摩以来の同志。鳥羽伏見の戦いで戦死
七番隊谷三十郎1866年に死去
八番隊藤堂平助伊東甲子太郎に従い離脱、油小路で斬られる
九番隊鈴木三樹三郎伊東甲子太郎の実弟。離脱後も生き延びた
十番隊原田左之助上野戦争で負傷し死去したとされる

生き延びた新選組の隊士

新選組の幹部でありながら明治を生きた人物は、限られています。

永倉新八(1839-1915)……二番隊組長。維新後は北海道で暮らし、新選組の回想を書き残しました。今日わかる新選組の内情の多くは、彼の証言によります。

斎藤一(1844-1915)……三番隊組長。会津まで戦い、維新後は藤田五郎と改名して警視庁に勤めました。西南戦争にも従軍しています。

島田魁(1828-1900)……監察。箱館まで戦い、維新後は神社の守衛として過ごしました。

沖田総司はなぜ有名なのか

隊士のなかでもとりわけ人気が高いのが沖田総司です。理由は三つあります。

剣の腕。 天然理心流の免許皆伝で、隊内でも屈指の使い手とされました。

若さと病。 結核により、幕府の終わりを見ることなく20代半ばで世を去っています。戦って死んだのではなく、病で倒れたという悲劇性が、後世の物語をかき立てました。

記録の少なさ。 生年も定かでなく、確実な肖像も残っていません。空白が多いぶん、後世が自由に像を描ける余地がありました。今日広まっている美青年のイメージは、小説や映像作品によって形づくられたものです。

新選組はなぜ粛清が多かったのか

一覧を見て気づくのは、敵ではなく隊内で命を落とした者が多いことです。芹沢鴨、山南敬助、武田観柳斎、伊東甲子太郎。いずれも組織の内側で処断されています。

背景には二つの事情があります。

規律を掲げる組織の宿命。 新選組は厳格な掟によって統率される集団でした。掟を破った者を許せば、統率そのものが崩れます。規律を保つために内部へ刃を向けざるをえないという構造でした。

寄せ集めという出自。 隊士は各地から集まった浪士で、思想も出身もばらばらです。政治的な路線対立が生じやすく、伊東甲子太郎の離脱のように、内部分裂が実際に起きました。

よくある質問

新選組の隊士は何人いましたか。 時期によって変動しますが、最も多い時期で200名を超えたとされます。

新選組で最も強かったのは誰ですか。 確定はできませんが、沖田総司・斎藤一・永倉新八の3人が屈指の使い手として名を挙げられることが多くなっています。

新選組で生き延びた隊士はいますか。 永倉新八、斎藤一、島田魁らが明治を生きました。とくに永倉新八の回想は、新選組を知る貴重な史料となっています。

新選組の局長は誰ですか。 近藤勇です。結成初期には芹沢鴨も筆頭局長の立場にありましたが、隊内で粛清されました。

組織の歩みは新選組、幹部の生涯は近藤勇土方歳三の記事でどうぞ。

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