幕末の文化

新選組の隊士一覧とは?組織と主要メンバーを解説

約15分で読めます
新選組の隊士一覧とは?組織と主要メンバーを解説
永倉新八 肖像写真(新選組二番隊組長) / 出典: Wikimedia Commons PD-Japan-oldphoto

新選組は、幕末の京都で治安維持を担った武装集団です。ここでは組織の構成と主要な隊士を一覧で整理します。

目次

新選組の隊士と組織構成

新選組は、局長を頂点とする明確な階層を持っていました。以下は慶応元年(1865 年)頃の代表的な編成です。 結成初期には局長が複数いるなど別の形を取っており、階層は全期間で同一ではありません。

役職役割
局長隊の頂点。近藤勇
副長実務と規律を統括。土方歳三
参謀政治的な助言。伊東甲子太郎
副長助勤/組長各隊を率いる。一番隊から十番隊まで
監察隊内外の情報収集と探索
勘定方会計を担当

隊士の数は時期によって変動し、最も多い時期で200名を超えたとされます。池田屋事件で名を上げたのち、募集によって急拡大しました。

幹部の一覧

人物役職最期
近藤勇局長1868年、板橋で斬首。満33歳
土方歳三副長1869年、箱館で戦死。満34歳
芹沢鴨初期の筆頭局長1863年、隊内で粛清
新見錦初期の局長格(副長とする史料も)1863年、切腹させられる
平山五郎副長助勤(水戸派)1863年、芹沢とともに斬殺
平間重助副長助勤・勘定役(水戸派)襲撃の夜に逃走。以後消息不明
野口健司副長助勤(水戸派)1864年、切腹。享年21
佐伯又三郎副長助勤1863年、島原で殺害される
安藤早太郎副長助勤1864年、池田屋の傷がもとで死去
大野右仲箱館新選組局長明治44年まで生き、土方の最期を記録
山南敬助総長1865年、脱走して切腹
伊東甲子太郎参謀1867年、離脱後に暗殺される
相馬主計最後の隊長1869年、箱館で降伏の書状に署名

組長(副長助勤)の一覧

組長備考
一番隊沖田総司剣の達人として名高い。病により1868年に死去
二番隊永倉新八維新後まで生き延び、回想録を残した
三番隊斎藤一会津まで戦い、維新後は警察官として生きた
四番隊松原忠司柔術師範。「今弁慶」と呼ばれた。1865年に死去
五番隊武田観柳斎1867年、隊を離れて粛清される
六番隊井上源三郎多摩以来の同志。鳥羽伏見の戦いで戦死
七番隊谷三十郎1866年、祇園社で「頓死」。死因は不明
八番隊藤堂平助伊東甲子太郎に従い離脱、油小路で斬られる
九番隊鈴木三樹三郎伊東甲子太郎の実弟。離脱後も生き延びた
十番隊原田左之助上野戦争で負傷し死去したとされる

監察・勘定方などの一覧

組長のほかに、隊を実務で動かした役目があります。

人物役職備考
山崎烝諸士調役兼監察探索を担った。生年も最期も不確定
島田魁監察・二番組伍長箱館まで戦い、明治33年まで生きて記録を残した
尾形俊太郎監察・文学師範会津まで残った副長助勤。消息は2013年に判明
服部武雄監察・撃剣師範二刀流の達人。油小路で一人戦って斃れる
篠原泰之進監察・柔術師範離脱後、近藤勇襲撃に加わる。明治44年まで生きた
大石鍬次郎諸士調役兼監察伊東甲子太郎を暗殺。1870年に斬首
河合耆三郎勘定方隊費の経理を担当。1866年に切腹させられる
毛内有之助監察・文学師範「百人芸」。油小路で斬殺される
吉村貫一郎監察・撃剣師範『壬生義士伝』の原型。鳥羽・伏見で戦死
尾関雅次郎調役兼監察・旗役行軍の先頭を担い、箱館まで戦った
中島登伍長『戦友絵姿』に隊士の顔を描き残した
近藤芳助伍長隊士であることを隠して生き延び、弁護士になった
葛山武八郎伍長近藤勇を告発する建白書に連署し、切腹
横倉甚五郎隊士龍馬・伊東暗殺の嫌疑で1870年に獄死
野村利三郎隊士近藤の嘆願で助命。宮古湾海戦で戦死
池田七三郎隊士昭和13年まで生きた最後の隊士
松本捨助八番組隊士長男ゆえに断られ続け、4年後に入隊
谷万太郎隊士(大坂屯所の長)谷三十郎の弟。ぜんざい屋事件で働く
谷周平隊士近藤勇の養子。兄の死後に縁組を解消

御陵衛士(高台寺党)へ分かれた隊士

慶応3年(1867年)3月、参謀伊東甲子太郎に従って隊を離れた一団です。孝明天皇陵の警備を名目としましたが、実態は勤王派としての独立でした。

人物新選組での役職その後
伊東甲子太郎参謀1867年、油小路で謀殺される
鈴木三樹三郎九番隊組長伊東の実弟。官軍側で戦い、1919年まで生きた
藤堂平助八番隊組長油小路で討たれる
服部武雄監察・撃剣師範油小路で一人戦い、満身二十余創で斃れる
毛内有之助監察・文学師範油小路で斬殺される
篠原泰之進監察・柔術師範近藤襲撃に加わる。1911年まで生きた
加納鷲雄伍長流山で近藤の正体を見抜き、捕縛につなげた
富山弥兵衛伍長薩摩出身。1868年、越後で殺害される
阿部十郎伍長・砲術師範近藤襲撃に加わる。史談会で証言を残した

なお佐野七五三之助は密命で隊に残り、幕臣取立に反対して会津藩邸内で切腹しました。

結成期に消えた取りまとめ役

幕府の信用で壬生浪士の筆頭格となりながら、二か月で二人とも消えています。

人物立場最期
殿内義雄残留者の取りまとめ役1863年、四条大橋で闇討ち。最初の粛清とされる
家里次郎残留者の取りまとめ役1863年、孤立して出奔し大坂で切腹

生き延びた新選組の隊士

新選組の幹部でありながら明治を生きた人物は、限られています。

永倉新八(1839-1915)……二番隊組長。維新後は北海道で暮らし、新選組の回想を書き残しました。彼の証言は、新選組の内情を知る主要な史料の一つです。

斎藤一(1844-1915)……三番隊組長。会津まで戦い、維新後は藤田五郎と改名して警視庁に勤めました。西南戦争にも従軍しています。

島田魁(1828-1900)……監察・二番組伍長。箱館まで戦い、晩年は西本願寺の夜間警備員を務めました。かつて隊が屯所を置いた寺です。『島田魁日記』などの記録を残しました。

鈴木三樹三郎(1837-1919)……九番隊組長。離脱して官軍側で戦い、維新後は警察官を歴任しました。組長を務めた人物としては最後の生き残りです。

篠原泰之進(1828-1911)……監察・柔術師範。離脱後に近藤勇襲撃に加わり、維新後は秦林親と改名。晩年はキリスト教に入信しています。

尾形俊太郎(1839-1913)……監察・文学師範。会津以降は長く行方不明とされ、その後半生が判明したのは2013年です。

沖田総司はなぜ有名なのか

隊士のなかでもとりわけ人気が高いのが沖田総司です。理由は三つあります。

剣の腕。 天然理心流の免許皆伝で、隊内でも屈指の使い手とされました。

若さと病。 結核により、戊辰戦争の帰趨を見届けることなく20代半ばで世を去っています。戦って死んだのではなく、病で倒れたという悲劇性が、後世の物語をかき立てました。

記録の少なさ。 生年も定かでなく、確実な肖像も残っていません。空白が多いぶん、後世が自由に像を描ける余地がありました。今日広まっている美青年のイメージは、小説や映像作品によって形づくられたものです。

新選組はなぜ粛清が多かったのか

一覧を見て気づくのは、敵ではなく隊の側に命を奪われた者が多いことです。芹沢鴨新見錦山南敬助河合耆三郎武田観柳斎伊東甲子太郎

うち武田伊東は離隊後に殺されているので、正確には「隊または旧同志の手にかかった」と言うべき例です。

理由も一通りではありません。 主導権争い(芹沢)、脱走(山南)、金銭(河合)、転向の疑い(武田、理由は諸説)、政治的路線(伊東)。

背景には二つの事情があります。

規律を掲げる組織の宿命。 新選組は厳しい規律で統率される集団でした(有名な「局中法度書」は同時代の原本が確認されておらず、条文の史料性には議論があります)。掟を破った者を許せば、統率そのものが崩れます。規律を保つために内部へ刃を向けざるをえないという構造でした。

寄せ集めという出自。 隊士は各地から集まった浪士で、思想も出身もばらばらです。政治的な路線対立が生じやすく、伊東甲子太郎の離脱のように、内部分裂が実際に起きました。

よくある質問

新選組の隊士は何人いましたか。

時期によって変動しますが、最も多い時期で200名を超えたとされます。

新選組で最も強かったのは誰ですか。

確定はできませんが、沖田総司・斎藤一・永倉新八の3人が屈指の使い手として名を挙げられることが多くなっています。

新選組で生き延びた隊士はいますか。

永倉新八斎藤一島田魁鈴木三樹三郎篠原泰之進尾形俊太郎らが明治を生きました。とくに永倉新八の回想は、新選組を知る貴重な史料となっています。

新選組の局長は誰ですか。

近藤勇です。結成初期には芹沢鴨新見錦も局長の立場にありましたが、いずれも隊内で処断されました。箱館で隊を閉じた最後の隊長は相馬主計です。

新選組の最後の隊長は誰ですか。

相馬主計です。明治2年(1869年)、箱館で土方歳三が戦死したあと、弁天台場で降伏の書状に隊長として署名しました。

組織の歩みは新選組、幹部の生涯は近藤勇土方歳三の記事でどうぞ。

あわせて読みたい