幕末の偉人

佐野七五三之助とは?幕臣取立に反対して会津藩邸で果てた隊士

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佐野七五三之助とは?幕臣取立に反対して会津藩邸で果てた隊士

新選組が幕臣に取り立てられたとき、それを拒んで死んだ隊士がいます。 佐野七五三之助。四人で会津藩邸に押しかけ、そこで果てています。

目次

佐野七五三之助とは何をした人か

佐野は新選組の隊士です。読みは「さの しめのすけ」。諱は重之。前名は寺西蔵之丞。

尾張国海東郡須成村の神職・寺西伊予守家班の嫡子として生まれました。生年は天保 7 年(1836 年)とする資料と、天保 5 年(1834 年)とする地元資料があり、確定していません。

慶応 3 年 6 月 14 日——西暦 1867 年 7 月 15 日、会津藩邸内で死去。 生年が確定しないため没年齢も定まらず、数えで 32 とも 34 とも計算されます。切腹とされますが、新選組隊士に殺害されたとする説もあります。

なお、第 24 代内閣総理大臣・加藤高明は佐野の甥(妹の子)にあたります。

佐野七五三之助の志

嘉永 3 年(1850 年)に父が死去すると、尊皇攘夷を志し、名前を佐野七五三之助と改めて江戸へ出奔しました。

神職の家を出て、名を変えて志士になったわけです。

文久 3 年(1863 年)頃、横浜の外国人居留地警備の役目を担った際に、伊東甲子太郎篠原泰之進らと出会います。

この横浜の縁が、のちの御陵衛士の母体になりました。 服部武雄加納鷲雄も同じ時期に交わっています。

元治元年(1864 年)10 月に新選組に入隊し、四番組に所属しました。

佐野七五三之助はなぜ残ったのか

慶応 3 年(1867 年)3 月、伊東らが新選組を脱退して御陵衛士を結成します。

佐野は新選組に残留しました。 御陵衛士側の密命を受けて残ったとする説がありますが、確定した史料で裏づけられているわけではありません。

佐野七五三之助の最期

慶応 3 年 6 月 10 日、新選組が幕臣に取り立てられます。

佐野はこれに反対しました。

尊皇攘夷を志して家を出た人間にとって、幕臣になることは筋が通りません。

そこで御陵衛士に参加しようとしましたが、規定によって断られました。 近藤勇伊東の間には、御陵衛士の分離にあたって互いの隊士を受け入れないという約定があったためです。

行き場がありません。

そして佐野は、茨木司・富川十郎・中村五郎とともに会津藩邸内で死にました。 6 月 14 日、四人が同時に果てています。通説は切腹ですが、新選組隊士に殺されたとする説も併記される事案です。

新選組の預かり主である会津藩の屋敷に押しかけて果てるという形は、単なる自決ではありません。抗議の意思表示です。

懐中には辞世の句が残されていました。 「二張の弓引かましと武士のただ一筋に思ひ切るなり」——二つの弓を引くことはできない、と読めます。 ただし慶応 4 年に発刊された辞世集には異なる内容が書き残されており、どちらが本当かは分かりません。

なお、佐野は一旦蘇生して検死にやってきた大石鍬次郎に斬りかかったという話が伝わりますが、これは一篇の古文書の記述が拡大したものとされます。 切腹ではなく大石らに惨殺されたとする説もあります。

遺骸は新選組の手で光縁寺に葬られましたが、のちに鈴木三樹三郎らの手で戒光寺に改葬されました。

よくある質問

佐野七五三之助は何をした人ですか。

新選組四番組の隊士です。尾張の神職の家に生まれ、尊皇攘夷を志して江戸へ出奔し、伊東甲子太郎らと横浜で出会って入隊しました。

佐野七五三之助はなぜ死んだのですか。

慶応 3 年 6 月の新選組の幕臣取立に反対し、御陵衛士へ移ろうとして規定により断られたためです。行き場を失い、三人の同志とともに会津藩邸内で果てました。切腹とされますが、殺害説もあります。

佐野七五三之助と一緒に死んだのは誰ですか。

茨木司・富川十郎・中村五郎の三人です。慶応 3 年 6 月 14 日、四人が会津藩邸内で果てました。

佐野七五三之助の墓はどこにありますか。

はじめ新選組の手で光縁寺に葬られ、のちに鈴木三樹三郎らによって戒光寺に改葬されました。

佐野七五三之助の年表

出来事
生年不確定尾張国須成村の神職の嫡子として生まれる(天保 7 年説・天保 5 年説)
1850 年父の死後、尊皇攘夷を志して改名し江戸へ出奔
1863 年頃横浜居留地の警備で伊東甲子太郎篠原泰之進らと出会う
1864 年 10 月新選組に入隊し四番組に所属
1867 年 3 月伊東らの離脱に際し残留(密命によるとする説あり)
1867 年 7 月 11 日新選組が幕臣に取り立てられる(慶応 3 年 6 月 10 日)
1867 年 7 月 15 日会津藩邸内で三人の同志とともに死去(慶応 3 年 6 月 14 日)。切腹とされるが殺害説もある

同じ横浜の縁からの隊士は篠原泰之進服部武雄加納鷲雄、隊士の全体は新選組隊士、隊の歩みは新選組で扱っています。

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