沖田総司とは?愛刀・結核・妻の有無まで史実で解説

新選組で最も強かったのは誰か、という問いに、多くの人が挙げる名前です。沖田総司。しかし彼が刀を振るえた期間は、驚くほど短いものでした。
目次
沖田総司とは何をした人か
沖田は新選組の一番隊組長であり、撃剣師範でもありました。つまり隊の実戦部隊の先頭に立ち、同時に隊士へ剣を教える立場です。
白河藩士の子として江戸の藩邸に生まれました。生年は天保 13 年(1842 年)とも弘化元年(1844 年)とも伝えられ、確定していません。
父を早くに亡くし、9 歳前後で近藤勇の道場・試衛館に入ります。天然理心流を学び、若くして免許を得て塾頭を務めました。少年のうちに大人の門人を圧倒していたと伝えられます。
土方歳三らとともに京へ上り、新選組の中核となりました。
沖田総司の愛刀
沖田の刀としてよく挙がるのが「菊一文字則宗」です。しかしこれは、史実ではなく小説によって広まった名前というのが今日の定説です。
菊一文字は鎌倉時代の名工の作で、当時すでに大変な価値を持つ刀でした。一介の隊士がこれを差していたとは考えにくく、後年の作家が沖田の人物像に合わせて与えた刀とみられています。
実際に沖田が用いたと伝えられるのは、加州清光や大和守安定といった、当時の実用刀です。名工の作ではあっても、伝説の名刀ではありません。
華やかな伝説の刀ではなく、よく斬れる実戦の刀を差していた。 そのほうが、一番隊組長という役割にはよほど似合っています。
沖田総司に妻はいたのか
結論から言えば、沖田に婚姻があったことを示す確実な記録は確認されていません。
恋人がいたという物語は数多くありますが、これらはいずれも後世の創作です。療養先で世話を受けた女性との交流を描いた作品などが知られますが、確かな記録に基づくものではありません。
沖田の身内としてはっきりしているのは、姉のミツです。沖田家を継いだミツの夫・林太郎とともに、沖田にとって数少ない身寄りでした。晩年の療養も、この縁者たちに支えられています。
結核との闘い
沖田の生涯を決定づけたのは、刀ではなく病でした。労咳――今日でいう肺結核です。
池田屋事件の戦闘中に沖田が倒れたという話は広く知られています。これを喀血によるものとする記述が有名ですが、当時の記録が明確にそう伝えているわけではなく、暑さや消耗によるとする見方もあります。倒れたこと自体は複数の記述に見えますが、原因の断定は避けるべきところです。
病がいつ始まり、いつ悪化したのかを特定できる史料はありません。確かなのは、遅くとも慶応年間には病状が深刻になっていたことです。慶応 4 年(1868 年)の鳥羽伏見の戦いのときには、すでに戦える体ではありませんでした。新選組が江戸へ、そして北へと転戦していく最も重要な局面で、沖田は戦列に加われなかったのです。
沖田総司の最期
江戸へ戻った沖田は、千駄ヶ谷の植木屋の家に身を寄せて療養したと伝えられます。没した場所については千駄ヶ谷とする説が有力ですが、今戸とする説もあり、確定していません。
慶応 4 年 5 月 30 日(1868 年 7 月)、そこで息を引き取ります。享年は数えで 25 とも 27 とも伝えられ、生年が確定していないため定まりません。いずれにせよ、満年齢では 20 代なかばです。
このとき、近藤勇はすでに板橋で処刑されていました。沖田がその死を知らされていたかどうかについては、伝承が分かれます。
墓は東京都港区元麻布の専称寺にあります。沖田家の菩提寺です。
なぜ沖田総司は人気があるのか
沖田の人気は、事績の大きさによるものではありません。若さと、強さと、早すぎる死――この三つが揃っていることによるものです。
隊内でも屈指の使い手でありながら、最後の戦いには加われず、病床で時代の終わりを迎えた。剣で生きた者が、剣とは無関係な理由で退場するという筋書きが、多くの物語を呼び寄せました。
その結果として、愛刀にも恋人にも、史実にはない彩りが加えられてきました。人気が伝説を作り、伝説がさらに人気を作る。沖田総司という人物像は、その循環のなかで形づくられています。
沖田総司の年表
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