井上源三郎とは?新選組六番隊組長の生涯と日野の資料館

新選組の幹部、なかでも試衛館以来の面々では最年長だった人物です。井上源三郎。近藤勇より 5 歳、土方歳三より 6 歳の年上でした。
目次
井上源三郎とは何をした人か
井上は新選組の六番隊組長を務めた幹部です。
華々しい逸話は多くありません。しかし彼の位置は、この隊にとって決定的でした。試衛館以来の同志であり、京での結成から戦死まで、一度も隊を離れなかった数少ない一人だからです。
新選組は内部の粛清と離脱が絶えなかった組織です。芹沢鴨は殺され、伊東甲子太郎は分かれて討たれ、山南敬助は切腹しました。そのなかで井上は最初から最後まで、ただ持ち場にいたのです。
日野の千人同心の家
文政 12 年(1829 年)、武蔵国多摩郡日野宿の生まれ。井上家は八王子千人同心の家系でした。
千人同心とは、甲州街道の警備と甲府の守りを担った、半農半士の集団です。武士でありながら土地に根を張り、農も営む。多摩という土地の性格そのものを体現した身分でした。
近藤勇も土方歳三もこの多摩の出身です。井上は兄の松五郎とともに天然理心流を学び、近藤の道場・試衛館の同志となりました。
同じ流派、同じ土地、同じ道場。 新選組の中核は、この多摩のつながりの上に成り立っています。
六番隊組長として
文久 3 年(1863 年)、井上は近藤・土方らとともに上洛します。34 歳。すでに若者ではありません。
池田屋事件にも参加し、六番隊組長として隊務を担いました。剣の腕は突出していたわけではないとする評もありますが、実直で人望があったと伝えられます。
近藤や土方が対外的な顔と組織の締めつけを担ったとすれば、井上は隊の内側を支える側にいた人物と言えるでしょう。
鳥羽伏見での戦死
慶応 4 年(1868 年)1 月、戊辰戦争の口火となる鳥羽伏見の戦いが起こります。
新選組は旧幕府軍として戦いましたが、新政府軍の銃砲の前に押し込まれました。井上源三郎は淀千両松の戦いで銃弾を受け、戦死します。 満 38 歳(数え 40 歳)でした。
このとき甥の泰助が、井上の首と刀を持って戦場を離れたと伝えられます。運びきれず、途中で埋めたという話が残っており、埋葬地とされる場所が今も伝えられています。
新選組の幹部として、初めて戦場で死んだ一人でした。この後、隊は江戸へ、そして北へと敗走を続けることになります。
墓は日野市の宝泉寺にあります。
日野の井上源三郎資料館
井上について検索されるとき、最も多く求められているのは実は資料館です。
東京都日野市に、井上源三郎資料館があります。源三郎自身に直系の子孫はなく、運営しているのは兄・松五郎の家系の子孫です。生家に伝わった資料や、源三郎ゆかりの品が展示されています。
新選組の隊士のなかで、生家の血筋が土地に残り、そこで資料を守り続けているという例は多くありません。日野には土方歳三の資料館もあり、両者を合わせて歩くことができます。
京都で名を上げた集団の、出発点がここにある。新選組は多摩から出て多摩に帰るということが、この土地を歩くとよく分かります。
井上源三郎の年表
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