幕末の偉人

服部武雄とは?油小路で二刀を握って死んだ新選組隊士

約7分で読めます
服部武雄とは?油小路で二刀を握って死んだ新選組隊士

新選組の中で一二を争う使い手が、新選組に殺されました。 服部武雄。死に方だけが、異様に詳しく記録されています。

目次

服部武雄とは何をした人か

服部は新選組諸士調役兼監察・撃剣師範であり、のちに御陵衛士となりました。読みは「はっとり たけお」。通称は三郎兵衛、諱は良章。

天保 3 年 12 月 22 日——西暦 1833 年 2 月 11 日、播磨赤穂藩に生まれました。

慶応 3 年 11 月 18 日——西暦 1867 年 12 月 13 日、油小路事件で死亡。満 34(数え 36)です。

服部武雄の腕前

服部について残っている評価は、一貫して「強い」の一点です。

大柄で剛力。二刀流の達人。 そして剣術・柔術・槍術のいずれについても、隊中で一二を争う使い手として名を馳せたとされます。

新選組の師範職は分業でした。 松原忠司篠原泰之進が柔術、武田観柳斎が軍学、原田左之助が槍。服部はそのうち撃剣、つまり剣術の師範です。

元治元年(1864 年)10 月の編成では尾形俊太郎の五番組に属し、慶応元年(1865 年)春に諸士調役兼監察・撃剣師範となります。同年 11 月には近藤勇の長州出張に随行し、慶応 2 年(1866 年)9 月の三条制札事件では目付役を務めました。

なお出自について、「殉難録稿」などには奸臣を斬って出奔した旨が記されていますが、史料上の確認は取れていません。

服部武雄と坂本龍馬

慶応 3 年(1867 年)11 月、坂本龍馬が近江屋で殺されます。

このとき服部は、弔歌を捧げています。

「尋ぬべき人もあらしのはげしくて 散る花のみぞおどろかねぬる」

幕府側の武装組織にいた男が、土佐の志士の死を悼んだわけです。 服部が離脱して御陵衛士になっていたことを考えれば筋は通りますが、それでも新選組の元師範が龍馬に歌を捧げているのは、幕末の陣営がそれほど単純に割れていなかったことを示します。

服部武雄の最期と油小路事件

慶応 3 年(1867 年)3 月、服部は伊東甲子太郎らとともに新選組を離脱し、御陵衛士を結成しました。

同年 11 月 18 日、伊東が新選組に暗殺されます。遺体の引き取りに向かうことになりました。

服部は反対しました。 全員が鎖帷子を着込んで武装すべきだと主張したのです。

受け入れられませんでした。 そして服部はただ一人、密かに鎖帷子を着ていきました。

現場は待ち伏せでした。鈴木三樹三郎・加納鷲雄・富山弥兵衛・篠原泰之進らが逃走する中、服部は塀を背にして、多勢の新選組を相手に最後まで一人で戦いました。 藤堂平助もこの場で討たれています。

なぜ服部は逃げなかったのか。 御陵衛士の研究家・市居浩一は、鎖帷子を着れば逃走が困難になることを服部は分かっていたと見ています。つまり、いざという時は同志を逃がすために最後まで敵を引きつけ、討死する覚悟をしていた。 ただしこれは推測で、史料としての確証はありません。

事件後の現場を目撃した桑名藩士・小山正武の証言が残っています。

「就中服部氏の死状は最も物美事である。……手に両刀を握ったままで敵に向かって大の字なりになって斃れて居られた。……其頭額前後左右より肩並びに左右腕腹共に満身二十余創流血淋漓死して後の顔色尚お活けるが如し」

二刀を握ったまま、大の字に。全身に二十余の傷。

なぜ服部武雄を読むのか

新選組の剣客として語られるのは、沖田総司斎藤一永倉新八の三人です。

服部は、その序列に入れられません。 離脱したからです。強かったが、敵になった。

そして皮肉なことに、服部の強さを最もはっきり伝えているのは、彼を殺した側の現場を見た第三者の証言です。 隊にいた記録より、死体の記録のほうが詳しい。

油小路で服部と斬り合った新選組隊士の一人が、島田魁です。 そして島田は明治まで生き、記録を残しました。同じ夜の両側が、それぞれ別の形で今日まで伝わっています。

よくある質問

服部武雄は何をした人ですか。

新選組の諸士調役兼監察・撃剣師範です。二刀流の達人として隊中一二を争う使い手とされ、のちに御陵衛士として離脱しました。

服部武雄はどのように死んだのですか。

慶応 3 年 11 月 18 日の油小路事件で、塀を背にして一人で新選組の多勢を相手に戦い、全身に二十余の傷を負って斃れました。満 34 です。

服部武雄はなぜ一人だけ鎖帷子を着ていたのですか。

全員が武装すべきと主張したが受け入れられなかったため、一人だけ密かに着込んでいきました。同志を逃がすため討死を覚悟していたという推測がありますが、確証はありません。

服部武雄は本当に強かったのですか。

同時代の記録は一致して剣術・柔術・槍術のいずれも隊中屈指としています。死状を目撃した桑名藩士の証言も、その戦い方を具体的に伝えています。

服部武雄の年表

出来事
1833 年播磨赤穂藩に生まれる(天保 3 年 12 月 22 日)
1864 年 10 月新選組の編成で尾形俊太郎の五番組に属す
1865 年春諸士調役兼監察・撃剣師範となる
1865 年 11 月近藤勇の長州出張に随行
1866 年 9 月三条制札事件で目付役を務める
1867 年 3 月伊東甲子太郎らと離脱し、御陵衛士を結成
1867 年 11 月坂本龍馬の死に弔歌を捧げる
1867 年 12 月 13 日油小路事件で戦死。満 34(慶応 3 年 11 月 18 日)

同じ日に討たれた藤堂平助、生き延びた鈴木三樹三郎篠原泰之進、隊士の全体は新選組隊士、隊の歩みは新選組で扱っています。

あわせて読みたい