家里次郎とは?孤立して大坂で腹を切らされた取りまとめ役

壬生浪士の責任者は二人いて、二人とも二か月で死にました。 殿内義雄と、家里次郎です。
目次
家里次郎とは何をした人か
家里は壬生浪士の一人です。読みは「いえさと つぐお」。姓は「いえざと」とも読まれます。結成二十四士に数えられますが、鵜殿鳩翁から残留者の取りまとめを命じられた特殊な立場でした。
天保 10 年(1839 年)、伊勢松坂の小林清右衛門とあさの二男として生まれました。
文久 3 年 4 月 24 日——西暦 1863 年 6 月 10 日、大坂で切腹。享年 25(数え) です。
家里次郎の立場と孤立
文久 3 年(1863 年)、清河八郎の呼びかけに応じて浪士組に参加。京に着くと、近藤勇・芹沢鴨・殿内義雄らとともに京に残ります。
そして幕府側の鵜殿鳩翁から、殿内とともに壬生村での残留者の取りまとめの責任者を任されました。
これは、実力ではなく幕府の信用で与えられた地位です。
壬生には芹沢率いる水戸派、近藤率いる試衛館派、根岸友山の一派がすでに固まっていました。家里と殿内には、後ろに付く人間がいません。
そして主導権争いが始まります。
殿内は暗殺されました。 根岸友山も脱退しました。
残された家里は孤立し、出奔します。
家里次郎の最期
大坂にいたところを、芹沢鴨に切腹させられたと伝えられます。 誰が主導した処断なのかは確定していません。
理由は「士道不覚悟」です。
士道不覚悟とは、武士としての覚悟が足りないという咎めです。 逃げた者に対する処断としては、形の上では筋が通ります。
しかし、家里は隊を率いる側ではなく、幕府に置かれた取りまとめ役でした。 そして逃げたのは、責任者としての立場が主導権争いのなかで無意味になったからです。
「士道不覚悟」という名目が、都合よく使える言葉であったことが分かります。 のちに新選組が山南敬助や河合耆三郎に用いたのと同じ構図です。
家里次郎の兄も殺されている
家里の死から一か月足らずの 5 月 18 日、兄である儒学者・家里松嶹(新太郎)も京都で何者かに暗殺されています。
兄弟が相次いで京都で殺されたことになります。
家里松嶹の暗殺者は分かっていません。弟の切腹と関係があるのかどうかも、確定していません。
文久 3 年の京都は、こうした死が日常的に起きていた場所でした。 壬生浪士の内部だけでも、3 月に殿内、4 月に家里、9 月に芹沢と平山五郎、そして新見錦、12 月に野口健司。結成の年に六人の幹部格が死んでいます。
よくある質問
家里次郎は何をした人ですか。
清河八郎の浪士組に参加し、幕府側から殿内義雄とともに壬生村の残留者の取りまとめを任された人物です。結成二十四士に数えられます。
家里次郎はなぜ切腹させられたのですか。
主導権争いのなかで孤立して出奔し、大坂にいたところを士道不覚悟として切腹させられました。芹沢鴨によるとされますが、誰が主導したのかは確定していません。
家里次郎の兄はどうなったのですか。
儒学者の家里松嶹(新太郎)も、家里の死から一か月足らずの 5 月 18 日に京都で何者かに暗殺されています。弟の切腹との関係は分かっていません。
家里次郎は何歳で死んだのですか。
享年 25(数え)です。文久 3 年 4 月 24 日、西暦 1863 年 6 月 10 日の切腹でした。
家里次郎の年表
あわせて読みたい

阿部十郎とは?新選組の内情を語り残した元隊士
一度脱走して復帰し、御陵衛士として近藤勇襲撃に加わり、維新後は開拓使に出仕してリンゴを育てた阿部十郎。明治30年代に史談会で語った証言が、今日の新選組像を作っています。

安藤早太郎とは?通し矢の日本記録を持つ新選組副長助勤
東大寺大仏殿の通し矢で11500本中8685本を射通し当時の日本記録を樹立した弓の名手・安藤早太郎。50歳近くで新選組の副長助勤となり、池田屋の裏庭で深手を負って死んだ隊士を解説します。

服部武雄とは?油小路で二刀を握って死んだ新選組隊士
二刀流の達人として新選組の撃剣師範を務め、御陵衛士として離脱。油小路事件で一人だけ鎖帷子を着込み、塀を背に多勢を引き受けて満身二十余創で斃れた服部武雄を解説します。
