安藤早太郎とは?通し矢の日本記録を持つ新選組副長助勤

新選組の隊士に、弓術の日本記録保持者がいました。 安藤早太郎。東大寺大仏殿の通し矢で 8685 本を射通した男です。
目次
安藤早太郎とは何をした人か
安藤は新選組の副長助勤です。読みは「あんどう はやたろう」。
三河国挙母藩——現在の愛知県豊田市の元藩士です。生年は文化 13 年(1816 年)頃とされます。
元治元年 7 月 22 日——西暦 1864 年 8 月 23 日、池田屋事件で負った傷がもとで死去しました。
隊内では相当な年長者です。 会津藩がまとめた『維新階梯雑誌』の隊士名簿には「三州」「四十才」と記されています。近藤勇より 18 歳ほど上にあたります。
安藤早太郎の通し矢
安藤の本業は弓です。
江戸勤務の父に従って江戸にいた頃は戸田市郎兵衛に師事して石堂竹林派を修業し、挙母に帰郷してからは高木応心斎から応心流を学びました。
そして天保 13 年(1842 年)、東大寺大仏殿西回廊での通し矢に挑みます。
11500 本中 8685 本を射通し、当時の日本記録を樹立しました。
通し矢とは、長い回廊の端から端まで矢を射通す競技です。 一昼夜かけて何千本も射続けるもので、弓術の持久力と精度を極限まで問われます。 射通率は約 75 パーセントに達しています。
これを描いた『東大寺通し矢絵巻』『南都大仏殿遠矢之図』が残っています。
剣術の流派は北辰一刀流で、南海太郎朝尊の二尺五寸の刀を持っていました。文政 9 年(1826 年)9 月の銘です。
安藤早太郎が新選組に入るまで
嘉永 4 年(1851 年)に脱藩し、知恩院一心寺に入寺しました。
弓の日本記録を持つ藩士が、藩を出て寺に入っているわけです。理由は伝わっていません。
文久 3 年(1863 年)5 月までに壬生浪士組に入隊していることが明らかになっており、5 月 25 日に幕府へ提出された上書に連名しています。同年 6 月の編成で副長助勤に就任しました。 なお「新選組」の名を与えられたのは八月十八日の政変の後で、この時点ではまだ壬生浪士組です。
なお、子母澤寛が旧幕臣らに取材した『新選組遺聞』に登場する安藤早太郎は 25〜26 歳に描かれており、元挙母藩士とは同名別人とする説もありました。 豊田市郷土史資料館は 2018 年、会津藩の名簿に「四十才」と記されていることから同一人物であるとの見解を発表しています。
安藤早太郎と池田屋事件
元治元年(1864 年)6 月の池田屋事件。
安藤は近藤勇の隊に所属し、奥沢栄助・新田革左衛門とともに池田屋の裏庭の防御に当たりました。
逃亡を図る志士の猛攻を受け、深手を負います。
そしてその負傷がもとで、翌月 7 月 22 日に死去しました。
池田屋事件で新選組側の死者は、この裏庭の三人です。 奥沢栄助は即死、安藤と新田は傷がもとで後に死去しました。後に会津藩から別段金 20 両を賜っています。
墓は壬生寺と聞名寺にあります。
安藤早太郎の最後の仕事
死の半年余り前、安藤は一つの役目を果たしています。
文久 3 年 12 月 27 日——西暦 1864 年 2 月 4 日、隊士野口健司の切腹に際して介錯を務めました。
そしてその足で、八木家の餅つきを手伝ったと伝えられます。
同志の首を落とした手で、餅をついている。 逸話としてはそれだけですが、この隊がどういう日常のなかにあったかは、こうした一行から見えてきます。
よくある質問
安藤早太郎は何をした人ですか。
新選組の副長助勤です。三河挙母藩の元藩士で、東大寺大仏殿の通し矢で当時の日本記録を樹立した弓術の名手でした。
安藤早太郎の通し矢の記録はどれくらいですか。
天保 13 年(1842 年)、東大寺大仏殿西回廊で 11500 本中 8685 本を射通し、当時の日本記録を樹立しました。
安藤早太郎はどのように死んだのですか。
池田屋事件で池田屋の裏庭を守り、逃亡を図る志士の猛攻を受けて深手を負い、元治元年 7 月 22 日(1864 年 8 月 23 日)にその傷がもとで死去しました。
安藤早太郎は何歳だったのですか。
生年は文化 13 年(1816 年)頃とされ、会津藩の隊士名簿には「四十才」と記されています。隊内では相当な年長者でした。
安藤早太郎の年表
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