近藤勇とは?新選組局長の生涯と墓をわかりやすく解説

幕末の京都で、揺らぐ秩序を刀で支えようとした集団がありました。新選組です。その頂点に立ち、隊を率いたのが局長・近藤勇でした。
目次
近藤勇の生い立ちと天然理心流
近藤勇は天保5年(1834年)、武蔵国多摩の農家に生まれました。天然理心流の剣術を学んで頭角をあらわし、やがて道場を継ぎます。この道場には、土方歳三や沖田総司といった、後に新選組を支える面々が集っていました。
剣の腕と人望を備えた近藤のもとに、志を同じくする者たちが自然と結びついていきます。
近藤勇の写真

近藤勇は何をした人か(新選組局長)
幕末の京都は、尊王攘夷を唱える志士たちが集まり、治安が大きく乱れていました。近藤らは、京都の警備を担う組織の一員として活動を始め、やがて新選組を名乗るようになります。
局長となった近藤は、副長の土方とともに隊を統率しました。厳しい規律のもとに鍛えられた新選組は、京都の治安維持を担う武装集団として知られていきます。
近藤勇と池田屋事件
新選組の名を一躍高めたのが、池田屋事件です。近藤らは、京都の旅宿・池田屋に集まっていた志士たちを襲撃しました。
この一件は、新選組の存在を広く世に知らしめると同時に、彼らを志士たちの強い恨みの的にもします。刀の時代の最後の輝きと、その危うさが、この事件には凝縮されています。
近藤勇の最期と処刑
時代が倒幕へと傾き、戊辰戦争が始まると、新選組は旧幕府軍として戦いました。しかし新政府軍の前に各地で敗れ、近藤もついに捕らえられます。
1868年5月17日、近藤勇は板橋の刑場で斬首され、その生涯を閉じました。数えで35、満33歳です。武士に憧れ、武士として生きようとした男の最期でした。
侍であれば切腹を許されるところを、斬首という処断を受けた点に、彼の立場の複雑さがあらわれています。農民の出でありながら武士として生き、最後は武士としての死に方を与えられませんでした。
近藤勇の墓はどこにあるのか
近藤の墓は一か所ではありません。斬首されたのち首と胴が分けられ、その行方が判然としないためです。現在、墓と伝えられている場所は主に三つあります。
| 場所 | 由来 |
|---|---|
| 龍源寺(東京都三鷹市) | 近藤家の菩提寺。胴が葬られたと伝わる。生家跡もほど近い |
| 近藤勇と新選組隊士供養塔(東京都北区・板橋駅前) | 処刑地の近く。生き延びた隊士・永倉新八らが建立した |
| 天寧寺(福島県会津若松市) | 土方歳三が建てたと伝わる墓。会津との縁による |
首の行方は不明のままです。 京都の三条河原に晒されたところまでは記録がありますが、その後については複数の言い伝えがあり、確かなことは分かっていません。
生まれ育った多摩には、生家跡や天然理心流ゆかりの地が点在しており、土方歳三の縁の地ともあわせてたどることができます。
近藤勇の愛刀「虎徹」
近藤の刀といえば、江戸前期の名工・長曽祢虎徹の作と伝えられる一振りが名高いものです。池田屋事件のあと、故郷への手紙で、隊士の刀が損なわれるなか自分の刀は名剣の虎徹ゆえか無事だったと書き送っており、この一節が「近藤の虎徹」を有名にしました。
ただし、この刀が本物の虎徹であったかどうかには、かねて疑問が呈されています。 虎徹は当時すでに極めて高価で贋作も多く、江戸・市谷の試衛館を継いだ近藤が真作を入手できたかは疑わしいとする見方が根強いためです。近藤自身が真贋をどこまで承知していたのかも分かっていません。
真偽はさておき、刀に強い思い入れを寄せた近藤の人柄を伝える逸話であることに変わりはありません。
近藤勇はどんな性格だったのか
近藤を語るとき、まず挙げられるのは面倒見のよさと、武士への強い憧れです。
多摩の農家に生まれた近藤にとって、武士とは生まれつき与えられた身分ではなく、努力して手に入れるべきものでした。京へ上って新選組を率いたのち、幕臣に取り立てられたときの喜びはひとしおだったと伝えられます。そのぶん、格式や作法にこだわる面もありました。
豪放な逸話も多く残っています。口を大きく開けて拳を入れてみせるのが得意だった、という話はよく知られているところです。
一方で、組織の頂点に立つ者としての非情さも持ち合わせていました。結成初期には筆頭格だった芹沢鴨が隊内で粛清されており、近藤・土方らがこれに関与したと考えられています。規律を掲げる集団が、その規律を保つために内部に刃を向けた。 新選組という組織の性格が、ここに端的にあらわれています。
近藤勇の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1834年 | 武蔵国多摩(現在の東京都調布市)に生まれる |
| 1849年 | 天然理心流に入門。のちに近藤家の養子となる |
| 1861年 | 天然理心流4代目を継ぐ |
| 1863年 | 浪士組に加わって上洛。壬生に残り、新選組の前身が生まれる |
| 1864年 | 池田屋事件。新選組の名が世に広まる |
| 1867年 | 幕臣に取り立てられる |
| 1868年1月 | 鳥羽伏見の戦いに敗れ、江戸へ退く |
| 1868年5月17日 | 板橋にて斬首。満33歳 |
よくある質問
近藤勇は何をした人ですか。
新選組の局長です。多摩の農民層の出身で、試衛館の道場主から京都の治安維持を担う武装組織の頂点に立ちました。
近藤勇はどのように死んだのですか。
慶応 4 年 4 月 25 日(1868 年 5 月 17 日)、板橋で斬首されました。満 33 歳です。
近藤勇の墓はどこにありますか。
東京都板橋区の板橋駅前に墓と、永倉新八が建てた供養塔があります。ほかに故郷の三鷹など複数の墓所が伝わります。
近藤勇の虎徹は本物だったのですか。
本物とする確証はありません。長曽祢虎徹は当時から贋作が多く、近藤が愛用した刀も真贋が定まっていません。
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