山南敬助とは?新選組総長の切腹と「写真」の真偽を解説

新選組の幹部が、隊を捨てて逃げ、連れ戻されて腹を切りました。総長・山南敬助です。
目次
山南敬助とは何をした人か
山南は新選組の総長を務めた人物です。局長の近藤勇、副長の土方歳三と並ぶ、隊の最上層にいました。
出自については確かなことが分かっていません。仙台の出身と伝えられますが、生年も含めて裏づけの乏しい部分が多く残ります。
剣は小野派一刀流を学んだことが確認されており、北辰一刀流も修めたとする説もあります。江戸で近藤勇の道場を訪れて敗れ、そのまま門下に入ったという逸話が伝わります。多摩の出身者が中心の試衛館において、外から加わった知識人肌の人物でした。
学問に通じ、文書の作成や交渉にあたったとされます。刀だけの集団ではないことを示す位置にいたわけです。
脱走と切腹
元治 2 年 2 月(西暦では 1865 年 3 月)、山南は屯所を離れ、江戸へ向かおうとしたとされます。脱走です。ただし脱走そのものを疑う説もあり、経緯は後年の回想に頼る部分が大きく残ります。
新選組には隊を脱することを許さない厳しい規則がありました。なお「局中法度」という名称と五箇条の条文は、同時代の成文として確認されているわけではなく、後世に整理・普及したものです。
通説では、土方が追手を出し、大津で山南が捕らえられ、連れ戻したのは彼を慕っていたとされる沖田総司だったとされます。捕縛の場所も沖田の関与も、異説のある部分です。
確実なのは、元治 2 年 2 月 23 日(1865 年 3 月 20 日)に山南が切腹したことです。享年は数えで 33 と伝えられますが、生年が不詳のため満年齢は算出できません。
なぜ脱走したのか
理由は確定していません。同時代の記録が乏しく、いくつかの説が並立しています。
近藤・土方の路線との対立。 隊が武力による統制を強め、粛清をためらわない組織になっていくなかで、山南がこれに耐えられなくなったとする見方です。
屯所移転をめぐる不満。 隊の拠点を寺に移す計画に、山南が強く反対していたという説があります。寺に武装集団が居座ることへの反発とも、別の政治的思惑とも言われます。
伊東甲子太郎との関係。 新たに加わった伊東は勤王の思想を持ち、隊内に別の流れを作りつつありました。山南がそちらに近かったとする見方です。
女性との関係。 島原の女性との情話が伝えられますが、これは後年の読み物で膨らんだ部分が大きいとみられます。
いずれも決め手を欠きます。確かなのは、幹部が屯所を離れ、隊の規律に従って死んだという骨格だけです。
「山南敬助の写真」の真偽
山南について、検索でとりわけ多く求められているのが写真です。
インターネット上には「山南敬助」として流布している人物写真がありますが、本人であるという確実な根拠はありません。別人の写真が取り違えられて広まったとする指摘が繰り返しなされています。
幕末の人物写真は、キャプションが後から付けられたものが多く、新選組の隊士についてはとりわけ真贋の定まらない例が目立ちます。沖田総司の肖像をめぐる状況も同様です。
確実に本人と分かる写真が残っているのは、土方歳三や近藤勇ら一部に限られます。 山南はそこに含まれません。
記録が少ないということ
山南について書けることは、多くありません。生年も、出身も、脱走の理由も、顔さえも確定しないためです。
それでも彼の名が残っているのは、新選組という組織の性格を、その死が最も鋭く示しているからでしょう。規律を掲げた集団が、最上層の一人にその規律を適用した。例外を作らなかったことが、この組織の恐ろしさでもありました。
墓は京都の光縁寺にあり、他の隊士たちとともに眠っています。
山南敬助の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 生年不詳 | 仙台の出身と伝わる |
| 1860 年代初頭 | 江戸で近藤勇と出会い、試衛館の同志となる |
| 1863 年 | 上洛し、新選組の結成に加わる |
| 1864 年 | 隊の編成資料に総長として名が見える(就任時期は不明) |
| 1865 年 3 月 | 元治 2 年 2 月 23 日、切腹。享年は数え 33 と伝わる |
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