幕末の偉人

尾関雅次郎とは?旗を持って先頭を歩いた新選組の調役

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尾関雅次郎とは?旗を持って先頭を歩いた新選組の調役

新選組の「誠」の旗を持って歩いた隊士がいます。 尾関雅次郎。行軍の先頭が、その持ち場でした。

目次

尾関雅次郎とは何をした人か

尾関は新選組調役兼監察です。読みは「おぜき まさじろう」。後に泉と改名し、維新後は尾関薫と改めました。

天保 15 年(1844 年)、大和国高取で高取藩士・尾関文左衛門(雅幸)の二男として生まれました。兄に尾関弥四郎がいます。

明治 25 年(1892 年)2 月 28 日、故郷の奈良県高取町で死去。満 47 か 48(享年 49)。 墓は光雲寺にあります。

尾関雅次郎は旗を持っていた

文久 3 年(1863 年)頃、新選組の前身である壬生浪士組に入隊します。

そして旗役として、行軍の先頭を任されました。

これは目立つ役目です。 新選組といえば「誠」の一字を染めた隊旗が知られていますが、その旗を実際に掲げて歩いた人間がいたわけです。

同時に、危険な役目でもあります。 旗手は真っ先に敵の目に入り、しかも旗を持っている間は両手が塞がります。

八月十八日の政変に参加しました。ただし池田屋事件には参加していません。

尾関雅次郎と建白書

尾関は、局長を告発した側にいます。

近藤勇に反発した永倉新八原田左之助斎藤一島田魁葛山武八郎とともに、建白書を提出しました。

のちに組長や監察を務める幹部級が並び、そこに葛山が加わっています。 近藤の非行を 5 箇条に纏め、会津藩に出した一件です。

この後、葛山だけが切腹しました。 尾関は生き延び、そのまま隊に残っています。

尾関雅次郎の戊辰戦争

鳥羽・伏見の戦いで敗れ、江戸へ帰還。その後は土方歳三島田魁相馬主計らとともに行動しました。

会津戦争では歩兵指図役、箱館戦争では第二分隊指図役を務めています。

「指図役」は部隊を動かす実務の役です。 旗役から始まり、戦場では部隊の指揮を任される立場になったことになります。

明治 2 年(1869 年)に箱館で降伏したのち、高取藩預かりとなり、明治 3 年(1870 年)に赦免されました。以後は尾関薫と改名しています。

故郷の高取町で明治 25 年(1892 年)に死去。

なぜ尾関雅次郎を読むのか

尾関の経歴には、目立つ剣戟がありません。 池田屋にも出ていない。それでも、結成期から箱館まで在隊し続けた隊士です。

旗を持って行軍の先頭に立ち、局長の非行を告発する建白書に名を連ね、会津と箱館で部隊の指図役を務めた。

新選組が六年間なんとか組織として動いていたのは、この層がいたからです。 記録は薄く、名前も一般には知られていません。

同じ建白書に連署した島田魁が明治まで生きて記録を残したのに対し、尾関は書き残していません。 そのぶん、伝わる量が違います。

よくある質問

尾関雅次郎は何をした人ですか。

新選組の調役兼監察です。壬生浪士組時代は旗役として行軍の先頭を任され、会津戦争・箱館戦争では部隊の指図役を務めました。

尾関雅次郎は建白書に関わったのですか。

関わっています。永倉新八原田左之助斎藤一島田魁葛山武八郎とともに、近藤勇の非行を告発する建白書に連署しました。

尾関雅次郎は池田屋事件に出たのですか。

出ていません。八月十八日の政変には参加していますが、池田屋事件には不参加でした。

尾関雅次郎は維新後どうなったのですか。

箱館で降伏後、高取藩預かりとなり明治 3 年に赦免。尾関薫と改名し、故郷の奈良県高取町で明治 25 年に死去しました。

尾関雅次郎の年表

出来事
1844 年大和国高取で高取藩士の二男として生まれる(天保 15 年)
1863 年頃壬生浪士組に入隊。旗役として行軍の先頭を任される
1863 年 8 月八月十八日の政変に参加
1864 年 6 月池田屋事件には不参加
1864 年近藤勇への建白書に連署
1868 年 1 月鳥羽・伏見の戦いで敗れ江戸へ帰還
1868 年会津戦争で歩兵指図役
1869 年箱館戦争で第二分隊指図役。5 月に降伏し高取藩預かり
1870 年赦免され、尾関薫と改名
1892 年 2 月 28 日奈良県高取町で死去。満 47 か 48

同じ建白書に連署した島田魁葛山武八郎、隊士の全体は新選組隊士、隊の歩みは新選組で扱っています。

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