山崎烝とは?新選組の監察を務めた記録の薄い隊士

新選組で、斬るのではなく調べるのが仕事だった隊士がいます。山崎烝。そして彼自身の記録が、ほとんど残っていません。
目次
山崎烝とは何をした人か
山崎は、新選組の隊士です。読みは「やまざき すすむ」。
役職は諸士調役兼監察でした。監察とは、隊の内外を調べる役です。
具体的には、こういう仕事です。倒幕派の動きを探る。京都の宿や商家に出入りして情報を集める。そして隊内の隊士を監視する。
主務は調査と監察でしたが、隊士として戦闘に加わることもありました。新選組のなかで、情報を担当する立場にいた人物です。
通説では慶応 4 年 1 月 13 日——西暦 1868 年 2 月 6 日に没しました。生年は確定していません。
山崎烝の記録が薄いという事実
この記事で最初に書くべきことは、山崎烝についての史料が非常に少ないということです。
生年が分かりません。天保 4 年(1833 年)ごろ、あるいは天保 5 年(1834 年)ごろとされますが、確定していません。そのため満年齢も出せません。
出自も確実ではありません。大坂の鍼医の子とされます。医術の知識があり、隊士の治療にも当たったと伝えられます。
最期も、はっきりしません。(後述します。)
なぜこれほど記録が薄いのか。
理由の一つは、役目の性質です。監察は表に出る役ではありません。探索の実務は文書に残しにくいのです。
もう一つは、新選組の記録そのものの偏りです。新選組について今日知られていることの多くは、永倉新八らの回想や、後年の聞き書きによります。回想は語り手の見た範囲に偏り、目立った隊士に集まります。
「情報係で、地味で、早く死んだ」隊士の記録は、そうして薄くなりました。
山崎烝と池田屋事件
山崎の名は、しばしば池田屋事件と結びつけて語られます。
元治元年(1864 年)、新選組が京都の旅館・池田屋で倒幕派の志士を襲撃した事件です。この事件の前提には、志士の集会場所を掴んだ探索がありました。
その探索を山崎が担ったとする話が広く語られています。監察という役目からすれば、自然な推測です。
ただし、山崎が池田屋の現場にいたかどうかについては、近年疑問が出されています。当日の参加者名簿にあたる史料の解釈が分かれるためです。
「監察として探索に関わった」という一般的な役割と、「池田屋の現場にいた」という個別の事実は、区別して扱う必要があります。
山崎烝の最期と鳥羽・伏見
慶応 4 年(1868 年)1 月、鳥羽・伏見の戦いが起こります。新選組は幕府側で戦い、敗れました。
山崎はこの戦いで負傷します。
その後の最期については、互いに合わない話が複数あります。
一つは水葬説です。幕府の軍艦・富士山丸で江戸へ搬送される途中に船上で死亡し、遺体は海に葬られた——これは後世に広まった伝承で、同乗者側の記録には乏しいものです。
もう一つは大坂で死亡したという証言です。八軒家で死んだとする関係者の話が伝わっています。
さらに、京都の光縁寺——新選組の隊士が葬られた寺に、山崎烝の名を刻んだ墓があります。水葬されたのなら、なぜ京都に墓があるのか。供養のための墓なのかもしれませんが、墓の存在だけで水葬説を退けることもできません。
最期は確定していません。
この隊士については、生まれた年も死んだ場所も、確かなことが言えないわけです。
なぜ山崎烝を読むのか
山崎烝の記事を書く意味は、その記録の薄さ自体にあります。
新選組について語られる話は、近藤勇・土方歳三・沖田総司に強く集中しています。三人は物語の主役として繰り返し描かれ、逸話が増えていきました。
その一方で、隊の運営を支えた人間の記録は増えません。
山崎烝は、二百人規模の組織を実際に動かしていた層の一人です。情報を集め、隊士を監視し、負傷者を診た。新選組が数年にわたって京都で機能したのは、この層がいたからです。
歴史に残る量と、実際に果たした役割の大きさは、比例しません。
山崎烝の年表
あわせて読みたい

阿部正弘とは?黒船に諸大名の意見を求めた老中首座の生涯
ペリー来航のとき、幕府の最高責任者だったのが老中首座・阿部正弘です。前例を破って諸大名に意見を求め、勝海舟らを登用し、三十代で世を去った政治家の生涯を史実に沿って解説します。

有村次左衛門とは?桜田門外の変で井伊直弼を討った薩摩藩士
桜田門外の変で大老・井伊直弼を討ち取ったのは、十八人の襲撃者のうちただ一人の薩摩藩士、有村次左衛門でした。二十代前半で自刃したその短い生涯を史実に沿って解説します。

千葉周作とは?北辰一刀流を興し剣術を合理化した剣豪の生涯
玄武館を開き「技の千葉」と称された北辰一刀流の創始者・千葉周作。修行年数を大幅に縮めた合理的な指導法で幕末最大の道場を築いた剣豪の生涯を史実に沿って解説します。
