池田七三郎とは?昭和13年まで生きた最後の新選組隊士

新選組の隊士として確認される最後の一人が死んだのは、昭和 13 年(1938 年)です。 池田七三郎。満 88 まで生きました。
目次
池田七三郎とは何をした人か
池田は新選組の隊士です。読みは「いけだ しちさぶろう」。本名は稗田利八(ひえだ りはち)。
嘉永 2 年 11 月 13 日——西暦 1849 年 12 月 27 日、上総国山辺郡田間村——現在の千葉県東金市の商人の三男として生まれました。
昭和 13 年(1938 年)1 月 16 日死去。満 88。 墓は東京都港区麻布台の真浄寺です。
池田の死をもって、生存の確認できる新選組隊士はいなくなりました。 在籍者の範囲や没年不詳の隊士を含めれば厳密な証明はできませんが、一般に「最後の隊士」とされています。
池田七三郎の写真

池田七三郎はなぜ新選組に入ったのか
理由は単純です。武士になりたかったからです。
元治元年(1864 年)、その願いから江戸へ出て天野精一郎の道場で剣術を学び、旗本の家臣となりました。
そして慶応 2 年(1866 年)、新選組に入隊します。 数え 18 歳。
商人の三男が、武士になるために剣を学び、新選組に入る。 近藤勇が多摩の農民層から、原田左之助が中間から上がったのと同じ経路です。新選組が最後まで持っていた機能が、これです。
池田七三郎の戊辰戦争
明治元年(1868 年)の鳥羽・伏見の戦い、そして甲陽鎮撫隊に参加しました。
甲州勝沼の戦いでは重傷を負います。
しかし農民に助けられ、一命を取り留めました。
新選組を襲った側ではなく、助けた側の農民です。甲州で敗走した隊士を、地元の人間が匿ったことになります。
その後は会津戦争へ出陣。8 月の母成峠の戦いで敗れると、斎藤一らと会津に残留しました。
尾形俊太郎が消息を絶ったのと同じ場面です。 母成峠のあと、斎藤の周りに残った隊士のなかに池田がいました。
10 月に高崎藩兵士に降伏。東京へ護送され、1 年の謹慎を経て放免となりました。
池田七三郎の後半生
放免後は、日本橋材木町にあった出店に戻り、商人として生きました。
武士になりたくて新選組に入った男が、結局は商人に戻っているわけです。
そして池田は長生きしました。
昭和 4 年(1929 年)——新選組結成から 66 年後、子母沢寛の取材を受け、回顧録「新選組聞書(稗田利八翁思出話)」を口述します。
このとき池田は満 79 歳。 明治も大正も終わり、昭和になっていました。
最後の隊士の証言だからこそ、扱いには注意が要ります。 60 年以上前の記憶であり、しかも記録者は創作の多い子母沢寛です。永倉新八の回想や島田魁の日記に比べて、事件からの距離が桁違いに遠いことは押さえておくべきです。
それでも、実際に隊にいた人間の声が昭和まで届いたという事実は変わりません。
昭和 13 年(1938 年)1 月 16 日、死去。満 88。
よくある質問
池田七三郎は何をした人ですか。
新選組の隊士です。本名は稗田利八。慶応 2 年に入隊し、鳥羽・伏見から会津まで戦い、維新後は商人として昭和 13 年まで生きました。
新選組の最後の隊士は誰ですか。
一般に池田七三郎とされます。昭和 13 年(1938 年)1 月 16 日に満 88 で死去し、以後、生存の確認できる隊士はいなくなりました。
池田七三郎はなぜ新選組に入ったのですか。
武士になりたかったためです。上総の商人の三男として生まれ、江戸で剣術を学んで旗本の家臣となり、慶応 2 年に入隊しました。
「新選組聞書」とは何ですか。
昭和 4 年(1929 年)に子母沢寛の取材を受けて池田が口述した回顧録です。事件から 60 年以上を経た証言であり、記録者にも創作が多いため、扱いには注意が要ります。
池田七三郎の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1849 年 | 上総国田間村の商人の三男として生まれる(嘉永 2 年 11 月 13 日) |
| 1864 年 | 武士になるため江戸へ出て天野精一郎の道場で学び、旗本の家臣となる |
| 1866 年 | 新選組に入隊 |
| 1868 年 1 月 | 鳥羽・伏見の戦いに参加。のち甲陽鎮撫隊 |
| 1868 年 3 月 | 甲州勝沼の戦いで重傷。農民に助けられ一命を取り留める |
| 1868 年 8 月 | 母成峠の敗戦後、斎藤一らと会津に残留 |
| 1868 年 10 月 | 高崎藩兵士に降伏。東京護送後、1 年の謹慎を経て放免 |
| 維新後 | 日本橋材木町の出店に戻り商人として生きる |
| 1929 年 | 子母沢寛の取材を受け「新選組聞書」を口述 |
| 1938 年 1 月 16 日 | 死去。満 88。確認される最後の新選組隊士 |
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