幕末の偉人

土方歳三とは?鬼の副長と呼ばれた生涯と墓をわかりやすく解説

約6分で読めます
土方歳三とは?鬼の副長と呼ばれた生涯と墓をわかりやすく解説

新選組の副長として厳しい規律を貫き、後世「鬼の副長」と呼ばれる土方歳三。武士の世が終わりを迎えるなか、彼は刀から銃へと戦い方を改めながら、最後まで戦い抜きました。

目次

土方歳三の生い立ちと多摩から京へ

土方歳三は天保6年(1835年)、武蔵国多摩の農家に生まれました。天然理心流の剣術道場で近藤勇らと出会い、固い絆で結ばれていきます。

幕末の混乱のなか、彼らは京都の治安維持を担う集団として活動を始めました。これが、後に名を轟かせる新選組へとつながっていきます。

土方歳三の写真

土方歳三の写真
土方歳三(田本研造 撮影, 1869) / 出典: Wikimedia Commons (PD-Japan-oldphoto)

土方歳三はなぜ鬼の副長と呼ばれたのか

新選組において、土方は局長・近藤を支える副長として組織の統率を担いました。隊の規律を保つための厳格な掟を容赦なく運用したことから、後世「鬼の副長」と呼ばれるようになりました。

その厳しさは、烏合の衆に堕しかねない集団を精強な組織へと鍛え上げるためのものでした。彼の冷徹な統率が、新選組という存在を支えていたのです。

土方歳三が戊辰戦争で北へ転戦した理由

時代が倒幕へと大きく傾き、戊辰戦争が始まると、新選組は旧幕府軍として各地を転戦します。近藤を失ってもなお、土方は戦いをやめませんでした。

敗走を重ねながらも、彼は旧幕府勢力とともに北へ北へと向かい、ついに蝦夷地(北海道)の箱館にたどり着きます。

土方歳三の最期と五稜郭

1869年、箱館の五稜郭に拠った旧幕府軍は、新政府軍の総攻撃を受けました。土方歳三は、この戦いのさなかに銃弾に倒れ、生涯を閉じます。

勝敗の帰趨が定まってもなお戦い続けた土方の姿は、滅びゆくものへの忠義として、後世に語り継がれています。

土方歳三は何歳で死んだのか

土方が戦死したのは1869年6月20日(明治2年5月11日)、箱館の一本木関門付近とされます。馬上で指揮を執っていたところを銃弾に撃たれたと伝わります。

年齢は満34歳、数えで35でした。生まれは天保6年5月5日(1835年5月31日)なので、34歳の誕生日を迎えてから20日ほどで世を去ったことになります。

新選組の結成が1863年、土方が20代の終わりごろです。京での活動から箱館での戦死まで、その全盛期はわずか6年ほどにすぎません。

土方歳三の墓はどこにあるのか

遺体がどこに埋葬されたのかは、実のところ分かっていません。箱館戦争の混乱のなかで所在が失われ、五稜郭内、一本木関門付近、市中の寺院など、埋葬地には複数の説が伝えられています。

現在、墓として参られている場所は主に次の二つです。

  • 石田寺(東京都日野市)……土方の生家にほど近い菩提寺です。土方家の墓所があり、歳三の墓碑もここに建ちます。ゆかりの地としてもっとも訪れられている場所です
  • 碧血碑(北海道函館市)……箱館戦争で戦死した旧幕府軍の将兵を弔う慰霊碑です。土方個人の墓ではありませんが、彼を含む戦没者を祀っています

日野市には土方歳三資料館があり、生家に伝わった品が公開されてきました。多摩は近藤勇や沖田総司ともゆかりの深い土地です。

土方歳三の名言と辞世の歌

辞世として伝わる歌に、次の一首があります。

よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東の君やまもらむ

たとえこの身が蝦夷の地で朽ち果てようとも、魂は東にいる主君をお守りしよう、という意味になります。勝ち目のない戦いに身を投じた土方の立場をよく映した歌として知られています。

ただし、この歌が記録に現れるのは明治に入ってから、後援者だった小島家の人が編んだ伝記の中で、土方本人の作と確かめる手段はありません。「たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも」と字句の違う形も伝わっています。このほか、箱館まで従った隊士・島田魁が持っていた和歌集の巻頭には、土方の名で「鉾とりて月見るごとにおもふ哉 あすはかばねの上に照かと」という歌が記されており、こちらを最後の歌とみる研究者もいます。

鳥羽伏見の戦いのあと、土方は江戸で佐倉藩士の依田学海に「戎器は砲に非ざれば不可。僕、剣を佩き槍を執り、一も用ゆるところなし」(武器は銃砲でなければ役に立たない。自分は剣を帯び槍を取ったが、何の役にも立たなかった)と語ったと、依田が書き留めています。「もはや刀槍の時代ではない」という言葉で知られる話のもとになったものです。

意外に思われるかもしれませんが、土方は俳句を詠む人でもありました。「豊玉」の俳号で句を書き留めた『豊玉発句集』が残っており、上洛前の若い時期の作とみられています。技巧としては素朴ですが、鬼の副長という異名からは想像しにくい一面です。

土方歳三はどんな性格だったのか

新選組において土方が担ったのは、組織を組織として成り立たせる役割でした。隊の掟を守らせ、違反には切腹をもって臨む厳しさで知られ、隊士からは恐れられます。近藤勇が象徴として立ち、土方が実務と規律を引き受ける。この分担が新選組の骨格をなしていました。

一方で、その厳格さは私怨や気まぐれによるものではありません。集団を精強に保つための必要から出た冷徹さであり、近藤への忠義は最後まで揺らぎませんでした。近藤が刑死したのちも戦いをやめず、蝦夷地まで転戦し続けたことがそれを示しています。

俳句を詠み、写真を残し、洋装に身を包んで銃隊を指揮する。旧来の武士像に収まらない柔軟さもあわせ持っていました。土方が今日まで人気を保っているのは、この「厳格さ」と「滅びの美学」、そして時代に適応する現実感覚が同居しているためでしょう。

土方歳三の年表

年出来事
1835年武蔵国多摩(現在の東京都日野市)に生まれる
1859年天然理心流に正式に入門。それ以前から近藤勇らと交わる
1863年浪士組に加わって上洛。壬生を拠点に活動を始める
1864年池田屋事件。新選組の名が世に知られる
1867年幕臣に取り立てられる
1868年鳥羽伏見の戦いに敗れ、東へ転戦。近藤勇が刑死
1869年6月20日箱館で戦死(一本木関門付近とされる)。満34歳

よくある質問

土方歳三は何をした人ですか。

新選組の副長として隊の規律を担い、戊辰戦争では旧幕府軍の指揮官として箱館まで戦い抜きました。

土方歳三はどのように死んだのですか。

明治 2 年 5 月 11 日(1869 年 6 月 20 日)、箱館で銃弾を受けて戦死しました。満 34 歳です。場所は一本木関門付近とされますが、ほかの説もあります。

土方歳三の墓はどこにありますか。

遺体の埋葬地は分かっていません。故郷の東京都日野市の石田寺に土方家の墓所と歳三の墓碑があり、箱館の碧血碑は旧幕府軍の戦死者を祀る碑です。

土方歳三は武士の生まれですか。

いいえ。多摩の農家の出身です。剣の腕と組織の統率力で新選組の副長になりました。

新選組という組織については新選組と壬生で、同志たちは幕末の偉人でたどれます。

あわせて読みたい