幕末の文化

池田屋事件とは?新選組が名を上げた一夜をわかりやすく解説

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池田屋事件とは?新選組が名を上げた一夜をわかりやすく解説
「東海道五十三次 京 三条大橋図」歌川広重(事件の舞台は三条小橋) / 出典: Wikimedia Commons CC0

新選組の名を一夜にして天下に知らしめた事件があります。池田屋事件。京都の旅宿に集まった尊攘派志士たちを、近藤勇らが急襲した一件です。

目次

池田屋事件とは

池田屋事件とは、1864年7月8日(元治元年6月5日)の夜、京都三条小橋の旅宿・池田屋に集まっていた尊王攘夷派の志士たちを、新選組が襲撃した事件です。

項目内容
日時1864年7月8日の夜
場所京都・三条小橋の旅宿「池田屋」
襲撃した側新選組(局長 近藤勇ほか)
襲撃された側長州・土佐・熊本などの尊攘派志士20数名
結果志士側に多数の死傷者・捕縛者。新選組の名声が一気に高まった

事件のきっかけとなった古高俊太郎の捕縛

発端は、事件の数日前に新選組が捕らえた1人の男でした。

四条で薪炭商を営んでいた古高俊太郎は、その正体を尊攘派の志士とし、武器や書状を隠し持っていました。新選組は彼を捕らえ、屯所で厳しい拷問にかけたと伝えられます。

この取り調べから、志士たちが京都で不穏な計画を進めているという情報が得られたとされます。風の強い日に京都市中に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮を幽閉し、松平容保を討ち、天皇を長州へ移す。 後世に広く語られてきたのは、そうした計画です。

ただし、この計画がどこまで実在したのかについては慎重な見方があります。 拷問による自白がどこまで信用できるか、後年の記録がどれほど誇張されたかを見極めるのは難しいためです。少なくとも、志士たちが劣勢を挽回するために何らかの行動を計画していたことは確かですが、その規模と具体性については議論が残ります。

その夜、池田屋で何が起きたのか

新選組は志士たちの集会場所を突き止められないまま、隊を二手に分けて市中を捜索しました。

そして近藤勇が率いる隊が、池田屋にたどり着きます。このとき近藤の手勢はごくわずかだったと伝えられます。踏み込んだ人数については4名程度とする記録があり、20数名が集まる屋内へ少数で斬り込んだことになります。

激しい斬り合いとなり、狭い屋内での戦闘は志士側に不利に働きました。土方歳三の隊が到着したのは戦闘が始まってからで、屋外を固めて逃走を防いでいます。

犠牲となった志士のなかには、次の名があります。

  • 宮部鼎蔵(熊本)……尊攘派の中心人物のひとりで、吉田松陰とも親交がありました
  • 吉田稔麿(長州)……松下村塾に学んだ俊才で、高杉晋作・久坂玄瑞と並び称されました
  • 北添佶摩(土佐)

新選組側にも死傷者が出ています。沖田総司がこの戦闘中に倒れたという逸話は広く知られていますが、その原因や時期については諸説あります。

池田屋事件がもたらしたもの

新選組の名声

この一件で、新選組は無名の警備集団から、京都で最も恐れられる存在になりました。 朝廷と幕府から褒賞が与えられ、隊士の募集も進んで組織は拡大していきます。近藤勇が故郷への手紙で自らの刀の切れ味を誇ったという逸話も、この戦いのものです。

同時に、志士たちからの激しい憎悪の的にもなりました。以後の新選組は、常に報復の危険と隣り合わせになります。

禁門の変への直結

より重大なのは、この事件が長州藩を暴発させたことです。

有為の人材を京都で討たれた長州藩内では、強硬論が一気に高まりました。翌月、長州は兵を率いて上京し、御所を舞台に薩摩・会津らと戦火を交えます。世にいう禁門の変です。

長州はこの戦いに敗れ、朝敵とされました。そこから第一次長州征討、薩長同盟、そして倒幕へと、幕末は一気に加速していきます。

新選組が京都の秩序を守ろうとした行動が、結果として幕府崩壊への流れを速めた。 池田屋事件の皮肉はここにあります。

池田屋事件の年表

年月出来事
1863年8月八月十八日の政変。長州が京都から追放される
1864年7月上旬古高俊太郎が捕縛される
1864年7月8日池田屋事件
1864年8月禁門の変。長州が敗れて朝敵となる
1864年第一次長州征討
1866年3月薩長同盟が成立

池田屋は今どうなっているのか

事件の舞台となった池田屋の建物は現存しません。現在、京都市中京区の三条小橋のたもとに「池田屋騒動之址」の石碑が建てられており、当時をしのぶ手がかりとなっています。

三条通の一帯は、幕末の事件の舞台が集中する地域です。近江屋跡(坂本龍馬暗殺の地)も徒歩圏内にあります。

よくある質問

池田屋事件はいつ起きましたか。 1864年7月8日(元治元年6月5日)の夜です。

誰が襲撃したのですか。 新選組です。局長の近藤勇が率いる隊が先に踏み込み、土方歳三の隊が後から加わりました。

なぜ襲撃されたのですか。 捕縛した古高俊太郎の取り調べから、志士たちが京都で不穏な計画を進めているとの情報が得られたためです。ただし計画の実態については議論があります。

新選組はなぜ有名になったのですか。 少数で多数の志士に斬り込んで制圧したことが評価され、朝廷と幕府から褒賞を受けたためです。

襲撃した側の人物は近藤勇土方歳三、組織については新選組と壬生の記事でどうぞ。

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