幕末の文化

安政の大獄とは?なぜ起きた誰が処刑されたかを解説

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安政の大獄とは?なぜ起きた誰が処刑されたかを解説
井伊直弼 肖像(井伊直安 画) / 出典: Wikimedia Commons PD-old

幕末の政治を一気に緊張させた大弾圧、それが安政の大獄です。大老・井伊直弼が反対派を一掃したこの事件は、幕府の権威を守るどころか、その崩壊を早める結果を招きました。

目次

安政の大獄とは

安政の大獄とは、1858年から1859年にかけて、大老・井伊直弼が主導して行われた反対派の大規模な弾圧です。

処罰された者は大名・公家・志士・学者など100人以上にのぼり、うち8名が死罪となりました。長州の吉田松陰、福井の橋本左内といった、当代随一と目された人材が含まれています。

項目内容
時期1858年〜1859年
主導した人物大老 井伊直弼(実務は老中・間部詮勝らが担った)
対象一橋派の大名、公家、尊王攘夷派の志士・学者
規模処罰者100人以上、死罪8名
結末1860年、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺される

「安政」はこの弾圧が行われた元号、「大獄」は大規模な投獄・処罰を意味します。

安政の大獄はなぜ起こったのか

弾圧の背景には、二つの対立が重なっていました。

将軍の跡継ぎをめぐる争い

13代将軍・徳川家定に子がなく、次の将軍を誰にするかで幕府が二分されていました。

  • 南紀派……紀州藩の徳川慶福(のちの家茂)を推す一派です。血筋の近さを重視する保守派で、井伊直弼はこちらに属しました
  • 一橋派……一橋慶喜(のちの徳川慶喜)を推す一派です。有能な人物を立てるべきとする改革派で、水戸の徳川斉昭、薩摩の島津斉彬らが支持しました

大老に就任した井伊は、南紀派として徳川慶福を後継に決定します。一橋派は完全に敗れました。

天皇の許しなき条約調印

同じ1858年、井伊は日米修好通商条約に調印します。しかもこのとき、朝廷の勅許を得ていませんでした

開国そのものが避けられない情勢だったとはいえ、天皇の許しを得ずに外国と条約を結んだことは、尊王攘夷を掲げる人々の激しい怒りを買いました。国の重大事を幕府が独断で決めたことへの反発は、朝廷内部にも広がっていきます。

引き金となった戊午の密勅

そして決定的な事件が起こります。1858年、孝明天皇が幕府を通さずに水戸藩へ直接勅書を下したのです。これを戊午の密勅といいます。

幕府の頭越しに朝廷が大名へ指示を出す。これは幕府の統治原理そのものを否定する行為でした。井伊は激怒し、密勅の返納を水戸藩へ厳しく迫るとともに、関与した者たちの一斉摘発に乗り出します。これが安政の大獄の直接の始まりです。

安政の大獄で処刑された人々

死罪となったのは8名です。とくに名高いのが次の3人でした。

吉田松陰(長州藩・満29歳)——松下村塾で高杉晋作や伊藤博文らを育てた教育者です。老中暗殺計画を取り調べの場で自ら述べたことが処断につながったとされます。刑死直前に書いた『留魂録』は門下生に伝えられました。

橋本左内(福井藩・満25歳)——藩主・松平春嶽の側近として一橋派の中心で動いた俊才です。医学と洋学に通じ、その将来を惜しむ声は敵味方を問いませんでした。

頼三樹三郎(儒学者・満34歳)——尊王論を唱えた学者で、歴史家・頼山陽の子にあたります。

このほか水戸藩の安島帯刀、鵜飼吉左衛門・幸吉父子らが死罪となり、梅田雲浜は取り調べ中に獄死しています。処罰はさらに広く及び、徳川斉昭は永蟄居、松平春嶽・山内容堂・一橋慶喜らは隠居・謹慎を命じられました。

幕府は、この時代における最も有能な人材の一部を、自らの手で失いました。 これが安政の大獄の最も重い代償でした。

安政の大獄の年表

年月出来事
1858年4月井伊直弼が大老に就任
1858年6月日米修好通商条約に無勅許で調印
1858年7月徳川慶福を将軍後継に決定。一橋派が敗れる
1858年8月戊午の密勅が水戸藩に下る
1858年9月〜一斉摘発が始まる
1859年10月吉田松陰・橋本左内・頼三樹三郎らが処刑される
1860年3月桜田門外の変。井伊直弼が暗殺され、弾圧は終わる

安政の大獄がもたらしたもの

井伊の狙いは、幕府の権威を回復し、政局の混乱を力で収めることにありました。結果は正反対でした。

弾圧が反対派を殉教者に変えました。 とりわけ吉田松陰の死は、松下村塾の門下生たちを倒幕へと突き動かす原点となります。高杉晋作、伊藤博文、山県有朋。後に明治維新を担う面々は、師を幕府に殺された者たちでした。

水戸藩の怨恨が井伊自身に返ってきます。 密勅問題で最も厳しい処断を受けた水戸の脱藩浪士たちが、1860年3月、桜田門外で井伊直弼を討ちました。大老が白昼に暗殺されるという前代未聞の事態は、幕府にもはや反対派を抑える力がないことを天下に示したのです。

安政の大獄から桜田門外の変までは、わずか1年半でした。力による統制が、かえって統制の崩壊を早めた。 この事件の教訓はそこにあります。

よくある質問

安政の大獄とはどんな事件ですか。 大老・井伊直弼が、自身の政策に反対する大名・公家・志士たち100人以上を一斉に処罰した弾圧事件です。

安政の大獄はいつ起きましたか。 1858年から1859年にかけてです。翌1860年の桜田門外の変によって終わりました。

なぜ起きたのですか。 将軍の跡継ぎをめぐる対立と、朝廷の許しを得ない条約調印への反発が重なり、さらに孝明天皇が幕府を通さず水戸藩へ勅書を下した「戊午の密勅」が直接の引き金となりました。

誰が処刑されましたか。 吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎ら8名が死罪となりました。梅田雲浜は取り調べ中に獄死しています。

弾圧を主導した人物は井伊直弼、犠牲となった人物は吉田松陰の記事で。事件の帰結は桜田門外の変へ続きます。

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