幕末の偉人

篠原泰之進とは?近藤勇襲撃に加わった新選組隊士の長い後半生

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篠原泰之進とは?近藤勇襲撃に加わった新選組隊士の長い後半生

近藤勇を襲った一団の一人は、そのあと 43 年生きました。 篠原泰之進。晩年はキリスト教に入信しています。

目次

篠原泰之進とは何をした人か

篠原は新選組諸士調役兼監察方であり、柔術師範でした。読みは「しのはら たいのしん」。

のちに伊東甲子太郎らと隊を離れ、御陵衛士となります。

文政 11 年 11 月 16 日——西暦 1828 年 12 月 22 日、筑後国生葉郡高見村(現在の福岡県うきは市)に生まれました。豪農かつ石工業者・篠原元助の長男です。

名前が何度も変わります。 幼名は泰輔。変名として篠塚友平、秦河内。維新後は秦林親(はた しげちか)と改名しました。

明治 44 年(1911 年)6 月 13 日、東京市青山で死去。満 82 歳。 墓は青山霊園にあります。

篠原泰之進の写真

篠原泰之進の写真
篠原泰之進 写真(〜1911、晩年に家族と撮影されたもの)出典: Wikimedia Commons Public domain

篠原泰之進の武術

篠原は複数の流派を渡り歩いた武術家です。

久留米藩の森兵右衛門と種田宝蔵院流の師範に槍術と剣術を学び、弘化 2 年(1845 年)には良移心倒流柔術を下坂五郎兵衛に学びました。安政 4 年には江戸で北辰一刀流も学んでいます。

新選組で柔術師範を務めたのは、この蓄積によります。 同じ柔術師範には松原忠司がおり、新選組が剣だけの集団ではなかったことがここでも分かります。

篠原泰之進が新選組に入るまで

篠原の前半生は、尊王攘夷の志士としての放浪です。

久留米藩の家老・有馬右近の中間となり、安政 4 年(1857 年)に江戸藩邸勤番として上京しました。そして万延元年(1860 年)の桜田門外の変の衝撃を受け、その翌月に藩邸を脱出して水戸に滞在します。

文久元年(1861 年)以降は江戸の柔術師範のもとに潜伏し、旗本・窪田鎮勝のもとで大攘夷論の影響を受けました。翌年には大坂・京都で尊攘志士と交わっています。

文久 3 年(1863 年)、窪田に従って神奈川奉行所に雇われ、横浜の外国人居留地の警備に当たりました。この頃に服部武雄・加納鷲雄・佐野七五三之助らと交わり、伊東甲子太郎とも親しくなります。

同年 10 月、事件を起こします。 イギリス人 3 名が税関に乱入したため、縛り上げて海岸に放置するという暴行を加え、江戸に潜伏することになりました。

元治元年(1864 年)10 月、伊東鈴木三樹三郎ら計 7 名で、新選組加盟を前提に上京します。

ただし篠原だけは、すぐに入りませんでした。 大坂の谷万太郎の道場に滞在し、京坂を見て回ってから、慶応元年(1865 年)に至って加盟しています。谷三十郎の弟の道場です。 この谷との交友は維新後まで続きました。

篠原泰之進と近藤勇襲撃

慶応 3 年(1867 年)3 月、御陵衛士の結成に伴って新選組を離脱。この頃は秦河内と称しています。

御陵衛士の拝命そのものが、篠原の尽力によるとされます。 離脱の枠組みを作った側の人間です。

同年 11 月 18 日、伊東甲子太郎が暗殺された油小路事件のあと、篠原は薩摩藩邸に匿われました。

そして慶応 3 年 12 月 18 日——西暦 1868 年 1 月 12 日、篠原ら御陵衛士の生き残りは伏見街道で近藤勇を襲撃します。

近藤は肩を撃たれ、重傷を負いました。 ただし誰が撃ったのかは特定されていません。 篠原はこの襲撃の一団にいた、というところまでが史料の言えることです。 このとき近藤の馬を走らせて命を救ったのが島田魁です。

この負傷は、近藤の運命に効きました。 傷が癒えないまま鳥羽・伏見の戦いを迎え、以後の指揮に影を落とします。

明治元年(1868 年)の鳥羽・伏見では薩摩軍の一員として戦い、戊辰戦争では赤報隊に加わって投獄されたのち釈放され、軍曹として会津・北越で戦功を上げました。

篠原泰之進の明治

維新後、秦林親と改名します。

戦功により永世士族の身分、恩賞金 250 両、終身 8 人扶持を賜りました。明治 2 年(1869 年)に弾正台少巡察、明治 5 年(1872 年)に大蔵省造幣使の監察役。

その後、実業家に転身しましたが成功していません。

そして晩年はキリスト教に入信しました。

尊王攘夷を掲げて外国人居留地でイギリス人を縛り上げた男が、最後にキリスト教徒になっています。 幕末に「攘夷」を叫んだ世代がその後どこへ行き着いたかを、一人の生涯で示す例です。

篠原は息子の英語教育に熱心で、建築家になった長男の泰親は、帝国ホテル建築に参加した際に設計者フランク・ロイド・ライトに可愛がられたといいます。御陵衛士が英語を学んでいたとする説も、篠原の遺した手帳から出ています。

篠原泰之進をめぐる誤りと訂正

篠原については、創作が定着している部分があります。

司馬遼太郎の『新選組血風録』では、普段から水で耳を洗う癖が仇となって中耳炎で死去したとされます。

これは創作です。 長男夫人によれば、そもそも耳を洗う癖はなく、耳を患ったこと自体が生涯に一度もありませんでした。

また『秦林親日記』は日記ではなく、本人が明治末年に執筆した回顧録です。長男の泰親は子母澤寛と親交が深く、子母澤の新選組関連著作にも証言者として登場しますが、子母澤が書いた篠原関連の逸話には創作が多く含まれます。

維新後の篠原は、伊東一派が新選組に加盟した目的を「新選組を勤王に衣替えするためだった」と語っています。 近藤勇は「徳川あっての今日だ」と言って聞き入れなかったと書き残しました。両者が最初から噛み合っていなかったことが分かる証言です。

よくある質問

篠原泰之進は何をした人ですか。

新選組の諸士調役兼監察方・柔術師範です。のちに伊東甲子太郎らと離脱して御陵衛士となり、近藤勇の襲撃に加わりました。

篠原泰之進は近藤勇を撃ったのですか。

慶応 3 年 12 月 18 日(1868 年 1 月 12 日)、伏見街道で近藤勇を襲撃した一団に加わっています。近藤は肩を撃たれ重傷を負いましたが、誰が撃ったのかは特定されていません。

篠原泰之進は耳の病気で死んだのですか。

違います。司馬遼太郎の小説にある「耳を洗う癖が仇となって中耳炎で死去」は創作で、長男夫人によれば耳を患ったこと自体がありませんでした。

篠原泰之進は維新後どうなったのですか。

秦林親と改名し、弾正台少巡察や造幣使の監察役を務めました。のち実業家に転じたが成功せず、晩年はキリスト教に入信しています。

篠原泰之進の年表

出来事
1828 年筑後国高見村の豪農・石工業者の長男として生まれる
1845 年良移心倒流柔術を学ぶ。槍術・剣術も修める
1857 年久留米藩の江戸藩邸勤番として上京
1860 年桜田門外の変の翌月に藩邸を脱出し、水戸へ
1863 年神奈川奉行所に雇われ横浜居留地を警備。イギリス人への暴行事件を起こす
1864 年 10 月伊東甲子太郎らと上京。大坂の谷万太郎道場に滞在
1865 年新選組に加盟。諸士調役兼監察・柔術師範となる
1867 年 3 月御陵衛士の結成に伴い離脱。秦河内と称する
1867 年 11 月油小路事件後、薩摩藩邸に匿われる
1868 年 1 月 12 日伏見街道で近藤勇を襲撃(慶応 3 年 12 月 18 日)
1868 年薩摩軍として鳥羽・伏見。のち赤報隊、軍曹として会津・北越を転戦
1869 年弾正台少巡察。維新後は秦林親と改名
1911 年 6 月 13 日東京市青山で死去。満 82 歳

同じ道を歩んだ伊東甲子太郎鈴木三樹三郎、隊士の全体は新選組隊士、隊の歩みは新選組で扱っています。

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