幕末の偉人

武田観柳斎とは?時代に置いていかれた新選組五番隊組長

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武田観柳斎とは?時代に置いていかれた新選組五番隊組長

技術で出世した者は、技術が古びたときに落ちます。 新選組でそれが起きた例が、武田観柳斎です。

目次

武田観柳斎とは何をした人か

武田は新選組五番隊組長であり、文学師範、そして軍事方でした。読みは「たけだ かんりゅうさい」。

本名は福田廣。「武田観柳斎」は、甲斐武田氏にちなんで自ら称した名です。軍学者としての看板を、名前から作っていたわけです。

生年は天保 4 年(1833〜34 年)とされます。松江藩の支藩・母里藩の医学生の出と伝えられますが、前半生には確定していない部分が多くあります。

慶応 3 年 6 月 22 日——西暦 1867 年 7 月 23 日、京都郊外で暗殺されました。 隊を離れたあとの死です。

武田観柳斎の武器は軍学だった

武田が新選組で重んじられた理由は、剣ではありません。

江戸で甲州流軍学(北条流)を学びました。軍の編成・陣立て・行軍といった、集団を動かす学問です。

新選組はこれを必要としていました。 京都で治安維持を担う武装組織になった以上、個々の剣術だけでは足りません。隊として動くには、動かし方の理屈が要ります。

文久 3 年(1863 年)後半に入隊すると、初期の軍事演習で軍師として働き、元治元年(1864 年)には副長助勤に抜擢されます。のちに五番組組長・文学師範・軍事方となり、甲州流軍学による調練を担当しました。

近藤勇は武田を、文武両面で重用しています。西村兼文の記録でも、伊東甲子太郎と並ぶ「武芸の達者」として名が挙がっています。

元治元年(1864 年)9 月、近藤伊東甲子太郎を勧誘するため江戸へ帰郷したとき、武田は永倉新八・尾形俊太郎とともに帯同しました。幹部として遇されていた証拠です。

武田観柳斎はなぜ嫌われたのか

武田について残っている話は、ほとんどが悪評です。

子母澤寛の『新選組物語』によれば、上にはへつらい、下にはねちねちと絡む性格だったとされます。永倉新八らからは目の敵にされていました。

軍事調練の折、草鞋が緩んでいるという理由で隊士に絡み続け、見物していた町人が悔しさのあまり泣いたという話も伝えられます。

慶応元年(1865 年)4 月には、丹波国馬路村の郷士たちを出頭させて尋問しています。与えられた拷問は過酷で、郷士たちは身体の各所を痛め、涙を流すほどだったと記録されています。

ただし、こうした人物評の多くは子母澤寛の著作に拠っています。 子母澤の作品には脚色や創作が多く含まれることが知られており、「嫌われ者」という像がどこまで同時代の実像かは、慎重に扱う必要があります。

とはいえ、永倉ら複数の隊士に嫌われていたこと自体は、隊内で孤立していたことを示しています。

武田観柳斎の没落と最期

武田の地位を崩したのは、人間関係ではなく技術だったとされます。

幕府がフランス式兵制を導入していくと、武田の甲州流軍学は時代遅れになった——これが、武田の没落についてよく語られる説明です。

軍学者としての価値が消えれば、彼が隊にいる理由も消えます。

ただし、この因果は確定した史実ではありません。 フランス軍事顧問団の本格的な来日は慶応 3 年(1867 年)で、武田が脱退した慶応 2 年(1866 年)秋とは時期がずれます。「兵制の刷新が甲州流軍学を無価値にした」という説明は、後世の解釈として読むべきものです。

慶応 2 年(1866 年)頃から倒幕思想に傾き、伊東甲子太郎との接触を図ります。しかし近藤勇に拒絶され、伊東の側からも受け入れられなかったと伝えられます。

どちらにも行き場がなくなった武田は、除隊を願い出ます。 同年 9 月末から 10 月初旬に認められ、新選組を脱退しました。

そして慶応 3 年(1867 年)6 月 22 日、鴨川の銭取橋(竹田街道)で暗殺されました。理由については、京都で密かに倒幕活動を行っていたことが露見したためとする説、薩摩藩への接近を疑われたためとする説が伝わります。 いずれも直接史料で確定したものではありません。

武田の暗殺には斎藤一が関与したと伝わりますが、当時の斎藤は間者として御陵衛士に潜り込んでいたため、実行者とするには時期的な疑問があります。 誰が斬ったのかは確定していません。

なぜ武田観柳斎を読むのか

新選組の隊内粛清は、芹沢鴨山南敬助伊東甲子太郎と続きます。その中で武田の死だけは、性質が違います。

芹沢は主導権争い、山南は脱走、伊東は路線対立。武田については、持っていた技術が陳腐化して居場所を失ったという読み方が広く行われています。

時代が変わる速さに、専門が追いつかなかった。 幕末という時期が数年で軍制を塗り替えたことを、一人の隊士の没落として見られる例です。

よくある質問

武田観柳斎は何をした人ですか。

新選組の五番隊組長・文学師範・軍事方です。甲州流軍学を修め、隊の調練を担当しました。本名は福田廣です。

武田観柳斎はなぜ殺されたのですか。

慶応 3 年(1867 年)6 月 22 日に竹田街道の銭取橋で暗殺されましたが、理由は確定していません。脱退後の倒幕活動が露見したためとする説、薩摩藩への接近を疑われたためとする説が伝わります。

武田観柳斎を斬ったのは斎藤一ですか。

そう伝えられていますが、当時斎藤一は間者として御陵衛士に潜入していたため、時期的に疑問があります。実行者は確定していません。

武田観柳斎はなぜ隊内で地位を失ったのですか。

幕府がフランス式兵制を導入し、甲州流軍学が時代遅れになったためとよく説明されます。ただしフランス軍事顧問団の来日は 1867 年で、武田の脱退時期とはずれるため、この因果は確定した史実ではありません。

武田観柳斎の年表

出来事
天保 4 年(1833〜34 年)生まれる。母里藩の医学生の出とされる(前半生は不詳)
江戸期甲州流軍学(北条流)を学び、「武田観柳斎」を称する
1863 年後半新選組に加わり、軍師として演習を担う
1864 年副長助勤に抜擢。のち五番組組長・文学師範・軍事方
1864 年 9 月近藤勇の江戸帰郷に永倉新八らと帯同
1865 年 4 月丹波馬路村の郷士を尋問。過酷な拷問の記録が残る
1866 年頃隊内の立場が揺らぐ(軍学の陳腐化を理由とする説がある)
1866 年秋倒幕思想に傾き、除隊を願い出て脱退
1867 年 7 月 23 日竹田街道の銭取橋で暗殺される(慶応 3 年 6 月 22 日)

同じく粛清された隊士は芹沢鴨山南敬助伊東甲子太郎、隊士の全体は新選組隊士、隊の歩みは新選組で扱っています。

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