大石鍬次郎とは?「人斬り鍬次郎」と呼ばれた新選組隊士

「人斬り鍬次郎」という異名で知られる新選組隊士がいます。 大石鍬次郎。そしてその異名の出所は、信用できない本です。
目次
大石鍬次郎とは何をした人か
大石は新選組の諸士調役兼監察です。読みは「おおいし くわじろう」。名は守親。
天保 9 年(1838 年)、御三卿・一橋家の近習番衆・大石捨次郎の長男として生まれました。はじめは金之助と称しています。
確かな事実として、慶応 3 年(1867 年)11 月の油小路事件で伊東甲子太郎を暗殺しています。
明治 3 年 10 月 10 日——西暦 1870 年 11 月 3 日、その伊東殺害の罪で斬首されました。 数え 33(満 31 か 32)。生年が年単位でしか分からないため、満年齢は絞りきれません。
大石鍬次郎が新選組に入るまで
大石の経歴は、幕臣の子が身分を落として入り直した形です。
女性問題ともいわれる事情で生家を出奔し、武州日野の大工のもとに住み込みで働きました。
この大工が、佐藤彦五郎の家に出入りしていました。 彦五郎は日野の名主で、土方歳三の姉の夫にあたり、自宅に天然理心流の剣術道場を持っていました。
大石はそこへ通うようになります。 剣術の流派は小野派一刀流とされますが、この縁で天然理心流も学んでいます。
元治元年(1864 年)の池田屋事件後、近藤勇が江戸で隊士募集を行った際に入隊しました。
慶応元年(1865 年)5 月の山崎烝の「取調日記」によれば、この時点で大石は沖田総司率いる一番組の隊士に配属されています。
慶応 2 年(1866 年)9 月の三条制札事件では一隊を率いて出動。慶応 3 年(1867 年)6 月に新選組が幕臣に取り立てられると、諸士調役兼監察に任命されました。
「人斬り鍬次郎」はどこまで本当か
大石を語るとき必ず出てくるのが、暗殺を主とした任務に付いたことから「人斬り鍬次郎」と恐れられたという話です。
ここは慎重に扱う必要があります。
このエピソードの出所は、西村兼文の『新選組始末記』(壬生浪士始末記)です。 西村の著作には捏造が多いことが知られており、それをもとにした記述の信憑性にはかなりの疑問の余地があります。
一方で、大石が剣客として評価されていた記録は別にあります。 大正年間に古老の話をまとめた『史談会速記録』では、大石は沖田総司らと並び、何度も言及されるほどの剣客だったとされます。
つまり「腕が立った」ことは複数の筋から支持され、「暗殺専門だった」という職掌の話は疑わしい。 この二つは分けて扱うべきです。
とはいえ、大石が実際に伊東甲子太郎を暗殺したことは事実です。 異名が創作であっても、行為はありました。
大石鍬次郎と油小路事件
慶応 3 年(1867 年)11 月の油小路事件で、大石は伊東甲子太郎を暗殺しました。
伊東は新選組の参謀でしたが、勤王派として御陵衛士に分かれていました。手口はこうです。 近藤勇が伊東を妾宅に招いて饗応し、その帰路を大石らが待ち伏せた。
続く 12 月の天満屋事件では、斎藤一らとともに紀州藩士・三浦休太郎の護衛を務めました。
慶応 4 年(1868 年)1 月、鳥羽・伏見の敗戦で新選組は江戸へ退きます。近藤勇が甲陽鎮撫隊を組織すると、大石は先触れとして甲州に出張しました。
しかし同年 3 月、甲陽鎮撫隊が敗走した際に失踪します。
大石鍬次郎の最期と坂本龍馬暗殺の嫌疑
失踪後、大石は妻子とともに江戸に潜伏していました。
慶応 4 年(1868 年)12 月頃、懇意だった元隊士・三井丑之助に騙されて捕縛されます。
別の説もあります。 生活に困り、伊東一派で官軍になっていた加納鷲雄を訪ねて仕官を懇願したが容れられず捕縛された、という話です。ただしこれを裏づける記録はなく、加納の同志である阿部十郎の証言とも矛盾します。
捕縛された大石には、坂本龍馬暗殺(近江屋事件)の嫌疑がかけられました。
そして厳しい拷問に耐えきれず、一度は「自分がやった」と証言します。
しかし後に前言を撤回し、見廻組の仕業であると述べました。 近江屋事件の実行者としては佐々木只三郎ら見廻組の関与が有力とされており、大石の自白は拷問下の供述として扱われています。
拷問で得た自白が当てにならないことを、この一件はそのまま示しています。
明治 3 年 10 月 10 日(1870 年 11 月 3 日)、伊東甲子太郎殺害の罪で斬首。 数え 33 歳でした。
同じ日、相馬主計も伊東暗殺の嫌疑で伊豆新島に流罪となっています。 新選組の最後の隊長です。伊東の死に関する処分が、同じ日にまとめて執行されました。
なお、大石の嫡男・雷太郎は詮議を恐れて本間歌吉と改名し、下谷稲荷町に鼈甲職の店を構えたといいます。
よくある質問
大石鍬次郎は何をした人ですか。
新選組の諸士調役兼監察です。慶応 3 年の油小路事件で参謀伊東甲子太郎を暗殺しました。
「人斬り鍬次郎」は本当の異名ですか。
出所は捏造の多い西村兼文の著作で、信憑性には疑問があります。ただし腕の立つ剣客だったことは別の史料でも支持されています。
大石鍬次郎は坂本龍馬を暗殺したのですか。
大石の犯行とする確証はありません。捕縛後の拷問で一度は認めましたが、後に撤回し見廻組の仕業だと述べています。近江屋事件は見廻組の関与が有力とされます。
大石鍬次郎はどのように死んだのですか。
明治 3 年 10 月 10 日(1870 年 11 月 3 日)、伊東甲子太郎殺害の罪で斬首されました。数え 33、満では 31 か 32 です。
大石鍬次郎の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1838 年 | 一橋家の近習番衆・大石捨次郎の長男として生まれる |
| 出奔後 | 武州日野の大工に住み込み、佐藤彦五郎の道場に通う |
| 1864 年秋 | 池田屋事件後の江戸募集で新選組に入隊 |
| 1865 年 5 月 | 沖田総司率いる一番組に配属 |
| 1866 年 9 月 | 三条制札事件で一隊を率いて出動 |
| 1867 年 6 月 | 新選組の幕臣取立に伴い諸士調役兼監察となる |
| 1867 年 11 月 | 油小路事件で伊東甲子太郎を暗殺 |
| 1867 年 12 月 | 天満屋事件で斎藤一らと三浦休太郎を護衛 |
| 1868 年 3 月 | 甲陽鎮撫隊の敗走に際し失踪 |
| 1868 年 12 月頃 | 元隊士に騙されて捕縛。坂本龍馬暗殺の嫌疑を受ける |
| 1870 年 11 月 3 日 | 伊東殺害の罪で斬首。数え 33(満 31 か 32) |
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