新見錦とは?実像がつかめない新選組の初期幹部

新選組の初期には、局長格が三人いたとされます。 近藤勇、芹沢鴨、そして新見錦。このうち一人については、人物像がほとんど掴めません。
目次
新見錦とは何をした人か
新見は幕末の水戸藩浪士で、壬生浪士の隊士です。読みは「にいみ にしき」。「しんみ」と読む説もあります。
文久 3 年(1863 年)3 月、壬生浪士の結成当初の編成で、芹沢鴨・近藤勇と並んで局長になったとする史料があります。後年の記録には副長とするものもあり、初期編成における新見の位置づけは史料ごとに差があります。
いずれにせよ肩書としては、新選組の最上層にいた一人です。
それにもかかわらず、彼が何をしたのかがほとんど分かりません。
新見錦について分かっていること
確かな線は、これだけです。
生年は逆算です。 『阿部家史料集 公余録』にある 28 歳という記述から、天保 7 年(1836 年)生まれとされます。
出自は水戸藩とする文献が多くあります。時期は不明ですが岡田助右衛門に剣を学び、神道無念流の免許皆伝を授かりました。腕前は「達人之趣ニ御座候」とする風説が残ります。
文久 3 年(1863 年)2 月、清河八郎の周旋で組織された浪士組に加盟し、三番組小頭になります。小頭という幹部職に就いたことは、すでに名の知られた存在だったことを示します。 その組下には井上源三郎や沖田林太郎ら、多摩系の天然理心流門人 5 人が配属されました。
2 月 27 日に清河が江戸帰還を宣言すると、新見は芹沢・近藤とともに京都残留を表明して離脱しました。
そして 4 月、大坂の商人から 100 両を押し借りした際の添書きに、芹沢・近藤と並んで新見の名が記されています。
これが、隊士としてのほとんど唯一の活動記録です。
新見錦の記録がなぜ無いのか
記録が薄いというより、極端に乏しいのです。
5 月 25 日に松平容保に差し出された名簿に、新見の名前がありません。 同月入隊した島田魁が記した『英名録』にも載っていません。
芹沢や近藤のことをよく覚えていた八木家の八木為三郎は、新見については「まるきり覚えがありません」「いつの間にかいなくなっていた」と述べています。
屯所を提供していた家の子息が、局長格の人物を覚えていない。 これは異常です。
伝わっているのは、悪評だけです。永倉新八の『浪士文久報国記事』では、乱暴狼藉が甚だしく、法令を犯しては芹沢や近藤の説得にも耳を貸さなかったとされます。子母澤寛の『新選組始末記』でも、遊蕩に耽って隊務を怠り、隊費と称して民家から強請りを繰り返していたとされます。
ところが、芹沢鴨が起こした大坂力士騒動や大和屋事件に、新見が参加した記録はありません。 芹沢の腹心とされながら、芹沢の乱行の現場にいた痕跡がないのです。
新見錦の切腹は、いつだったのか
新見の最期についても、同じ永倉新八が二通りに書いています。
『新選組顛末記』では——遊蕩先だった祇園新地の料亭「山緒」に近藤一派が押しかけ、悪行を突きつけて「切腹せねば法度に照らして斬首する」と詰め寄り、切腹させた。
『浪士文久報国記事』では——一同相談のうえ切腹と決まったが、その内にまた水戸浪人に乱暴を働いたため、8 月 14 日か 15 日に梅津某の介錯で切腹させられた。
どちらが正しいのか分かっていません。
通説上の没日は文久 3 年 9 月 15 日(1863 年 10 月 27 日)とされますが、これも確定ではありません。
いずれにせよ、まもなく芹沢鴨と平山五郎も試衛館派に暗殺され、新選組の水戸派は壊滅しました。
新見錦は別人だったのか
近年の研究では、新見錦は別名だったという説が有力です。
同じ水戸浪士で、芹沢鴨の前名とされる下村嗣次と玉造勢の同志だった新家粂太郎(にいのみ くめたろう)こそが新見であり、それが本名だという見方です。下村とともに捕縛され、放免されたのちに「新見錦」を名乗ったと考えられています。
符合する点があります。 新家は神道無念流の剣客・金子健四郎の門人でした。文久 3 年 5 月には在京が確認できます。そして同年 9 月 15 日に切腹したとされ、記された没年(数え)は 28 歳。新見の年齢と一致します。 別の箇所では「新見久米次郎」との表記もあります。
壬生浪士の記録から新見の名が消えた 5 月以降の説明もつきます。 吉成勇太郎は「壬生浪士が粂太郎を持て余したので引き取った」と記しており、近藤・芹沢らが協議のうえ謹慎を解いて脱退させたと推測されています。
さらに西村兼文の『新撰組始末記』には新見の名が見えず、代わりに田中伊織という人物が壬生浪士創設の一員として記され、その最期を「近藤の意に応ぜざる事のあるをにらみ、闇殺す」としています。これを新見の変名とする説もあります。
新見錦はなぜ切腹させられたのか
素行不良と試衛館派との対立が理由とされますが、別の見方もあります。
明治維新後、長州派の志士を祀るために作られた霊山招魂社に、本来敵であるはずの新見が祀られています。 また元新徴組の暮地義信が維新の志士を記した『近世高名一覧勤王為皇国』にも名前があります。
これは、新政府側が新見を「志士」の側に数えていたことを示します。
そこから、切腹の理由は素行や派閥争いだけではなく、水戸・長州・土佐といった尊王攘夷派との関係を咎められたのではないかという説が出ています。ただし合祀や名簿への掲載から内通を導くのは推論であり、確証ではありません。
よくある質問
新見錦は何をした人ですか。
新選組の前身である壬生浪士の局長の一人とされる人物です。近藤勇・芹沢鴨と並ぶ立場にいましたが、活動記録がほとんど残っていません。
新見錦はいつ死んだのですか。
通説では文久 3 年 9 月 15 日(1863 年 10 月 27 日)に切腹とされます。ただし永倉新八は 8 月 14 日か 15 日とも書いており、確定していません。
新見錦は本当に実在したのですか。
実在は認められています。ただし「新見錦」は本名ではなく、水戸浪士・新家粂太郎の別名だったという説が近年有力です。
新見錦はなぜ記録が少ないのですか。
5 月の名簿から名前が消え、屯所を提供した八木家の子息も「まるきり覚えがない」と述べています。早い段階で隊から外れたためと考えられます。
新見錦の年表
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