谷三十郎とは?弟が近藤勇の養子になった新選組七番隊組長

新選組で最も濃い縁故を持っていた隊士がいます。谷三十郎。末の弟が、近藤勇の養子になっています。
目次
谷三十郎とは何をした人か
谷は新選組の七番組組長です。読みは「たに さんじゅうろう」。諱は供国。
天保 3 年(1832 年)、備中松山藩士・谷三治郎供行の嫡男として生まれました。旗奉行、120 石。れっきとした武士の家です。 幼少期から、直心一派の師範でもあった父に武術を学んでいます。
弟が二人います。 谷万太郎と谷周平。この兄弟が、彼の生涯の鍵になります。
慶応 2 年 4 月 1 日——西暦 1866 年 5 月 15 日、京都東山の祇園社で死去。満 33 か 34。死因は今も分かっていません。
谷三十郎の家はなぜ断絶したのか
谷の前半生には、転落があります。
嘉永 6 年(1853 年)1 月に家督を相続し、藩主・板倉勝静の近習役として仕えました。藩主の側近です。順調でした。
ところが安政 3 年(1856 年)10 月 13 日、不祥事により谷家は断絶します。
その理由は伝わっていますが、確定していません。 三十郎が藩主の姫君と密通したという説、家老の奥方との不倫という説。そもそも不祥事を起こしたのは三十郎ではなく弟の万太郎だという説もあります。
家が絶えたあと、三十郎は弟の万太郎とともに故郷を出奔し、大坂南堀江町で道場を開きました。天満八軒屋に住んでいたとする史料もあります。
武士の身分を失った者が、剣で食べていく。 新選組に集まった人間の典型的な経路です。
谷三十郎は槍の名手だったのか
通説では、谷は種田流槍術の師範で、原田左之助にも槍を指導したとされます。
しかしこれは疑われています。
子孫に伝わる話では、三十郎は剣術一筋で、神明流剣術の指南役だったとされます。
槍術の達人とする説は、弟の万太郎と混同された可能性があります。 万太郎は種田流の槍を使い、篠原泰之進が上洛時に滞在した大坂の道場も万太郎の道場でした。
兄弟が同じ場所で道場をやっていれば、後年の記録で混ざるのは自然なことです。
谷三十郎の新選組での働き
入隊の時期は不明ですが、元治元年(1864 年)6 月に副長助勤、同年 12 月に八番組長、慶応元年(1865 年)4 月に七番組組長・槍術師範となっています。
池田屋事件では土方歳三の隊に属し、事件後に褒賞 17 両を受けました。
目立った功績は、大坂での二件です。
慶応元年(1865 年)1 月、弟の万太郎ら 4 名で大坂焼き討ち計画を未然に防ぎます。ぜんざい屋事件と呼ばれる一件です。
さらに大坂の豪商・加賀屋四郎兵衛への献金要請で交渉役を務め、3 万 1500 両という大金を得ることに成功しました。隊の資金繰りに直接効いた働きです。
そしてこの間に、弟の周平が近藤勇の養子になっています。
縁故としてこれ以上のものはありません。 通説では、谷はこれを鼻にかけて隊内で嫌われたとされます。ただし、谷がこの縁組を主導したのかどうかは分かっていません。
谷三十郎の弱気な本音
谷について残っている証言で、最も生々しいものがあります。
禁門の変で捕縛した中田九一郎に対して、谷はこう話しました。「新選組には見かけほど強い隊士はいないので、いつも自分が先頭に立たされる」。
捕虜に向かって隊の内情を漏らし、しかも愚痴を言っています。
組長という肩書の内側は、こういうものだったのかもしれません。 新選組が実際にどれほど強かったのかを考えるとき、この一言は無視できません。
谷三十郎の死は何だったのか
慶応 2 年(1866 年)4 月 1 日、谷は京都東山の祇園社で死にました。
新選組は会津藩に対して、こう報告しています。「七番組頭谷三十郎儀、祇園石段下に於て頓死相遂げ候」。 石段下で急死した、と。
死因は不明です。 伝わる説は分かれます。斎藤一による暗殺説。過度の飲酒による脳卒中説。
「頓死」という報告の仕方そのものが、隊が説明を避けた印だと読むこともできます。 同時期の新選組には、松原忠司や河合耆三郎の不審な死も並んでいます。
墓所は大阪市北区の本傳寺です。
よくある質問
谷三十郎は何をした人ですか。
新選組の七番組組長です。備中松山藩士の家に生まれ、家の断絶後に大坂で道場を開き、のちに入隊しました。
谷三十郎は槍の名手だったのですか。
通説では種田流槍術の師範とされますが、子孫には神明流剣術の指南役だったと伝わります。槍の名手という像は、弟の谷万太郎と混同された可能性があります。
谷三十郎の死因は何ですか。
不明です。新選組は会津藩に「祇園石段下で頓死」と報告しました。斎藤一による暗殺説、飲酒による脳卒中説などが伝わります。
谷三十郎と近藤勇はどういう関係ですか。
谷の末弟・周平が近藤勇の養子になっています。通説では谷はこれを鼻にかけて嫌われたとされますが、縁組を谷が主導したのかは不明です。
谷三十郎の年表
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