幕末の偉人

尾形俊太郎とは?消息が平成に判明した新選組の文学師範

約8分で読めます
尾形俊太郎とは?消息が平成に判明した新選組の文学師範

この隊士の消息は、平成 25 年(2013 年)に分かりました。 尾形俊太郎。戊辰戦争で行方不明とされてから、145 年後のことです。

目次

尾形俊太郎とは何をした人か

尾形は新選組諸士取調兼監察および文学師範、そして副長助勤です。読みは「おがた しゅんたろう」。姓は緒方、小形とも書かれます。

本姓は三嶋です。 「尾形」は入隊に際して、先祖に当たる武将の姓から名乗ったとされます。諱は義代。

天保 10 年 4 月 26 日——西暦 1839 年 6 月 7 日、肥後国熊本藩領の来民に生まれました。永倉新八と同年齢です。

大正 2 年(1913 年)6 月 13 日に死去。満 74。

尾形俊太郎は文官として重んじられた

尾形の新選組入隊は、文久 3 年(1863 年)5 月 25 日以降とされます。同年 6 月の編成では、すでに副長助勤を務めています。

近藤勇の信頼が厚かったことは、随行の記録から分かります。

元治元年(1864 年)の江戸への隊士募集行き。慶応元年(1865 年)と慶応 2 年(1866 年)の二度の長州出張。尾形は例外なく随行しています。

慶応元年 4 月の編成では諸士取調役兼監察方および文学師範に就任しました。文官として高く評価されていたことがうかがえます。

慶応 3 年(1867 年)6 月の幕臣取立では、副長助勤として見廻組格となっています。

なお、元治元年 6 月の池田屋事件には、留守居役を命じられて不参加でした。 同年 12 月の行軍録では五番組組頭に就任しています。

「文学師範」という役職の存在は、新選組を剣客集団としてだけ見ることの限界を示します。 武田観柳斎も文学師範を兼ねており、隊は読み書きと軍学を教える機関でもありました。

尾形俊太郎と斎藤一の会津

慶応 4 年(1868 年)1 月の鳥羽・伏見の戦いで、尾形は目付を務めました。

大坂へ敗走したのち江戸に帰還。その後も在隊し続けます。 甲州勝沼の戦いを経て会津へ向かいました。

同年 8 月 21 日——西暦 1868 年 10 月 6 日の母成峠の戦いで敗走します。

翌 22 日、斎藤一——当時の山口次郎ら 38 名と共に、会津若松城下外堀外の斉藤屋に宿泊した記録を最後に、尾形は消息を絶ちました。

ここが重要な点です。 会津まで新選組に同行した副長助勤は、尾形と斎藤一の二人だけでした。

土方歳三は箱館へ向かい、近藤勇は板橋で斬られ、原田左之助は上野で倒れた。会津に残って戦い続けた幹部は、この二人です。

尾形俊太郎の消息はどう判明したのか

尾形の消息は、長く分かりませんでした。

新選組隊士・中島登は「行方不明」とし、横倉甚五郎は「会城に残った」としています。そのうえで、次のような説が並んでいました。

会津に残ってそこで生涯を終えた。仙台藩士と共に抗戦して仙台で降伏した。故郷の熊本に帰り、地元の警察で剣術を教えた。明治に「古閑膽次」と改名し、斎藤一と共に警視庁に採用されて諜報活動を行い、のちに消防署長となって殉職した。

どれも確証がありませんでした。

そして平成 25 年(2013 年)、霊山歴史館に尾形の子孫から俊太郎の手による漢詩書が寄贈されます。 この書と共に発見された文書の解析によって、生没年・来歴・その後が明らかになりました。

それによれば——尾形は会津でしばらく過ごしてから故郷の熊本に戻り、姓を本来の「三嶋」に戻して、明治 2 年(1869 年)に鹿本町の女性と結婚しました。

明治 26 年(1893 年)に現在の熊本県山鹿市鹿北町の椎持地区から養子をとり、明治 36 年(1903 年)には自らも椎持へ転居。須屋という集落で私塾を開き、周りから「しゅんがん先生」と呼ばれていました。

新選組の文学師範が、熊本の集落で塾を開いていたわけです。

熊本県山鹿市鹿北町多久の原には、尾形自らの書である「溝渠疏鑿記念碑」という石碑が残っています。鹿北町史にも「三島仙厳」という名前で記録があります。

晩年は、会津戦争の際に負ったと思われる目の怪我が元で、視力をほとんど失っていたといいます。

尾形俊太郎は語らなかった

尾形は、新選組隊士であったことを周囲に話しませんでした。

ただ文書の片隅に「元壬生浪士」とだけ記されていたといいます。

「壬生浪士」は、新選組の前身の呼び名であり、京都の町人が侮蔑を込めて「みぶろ」と呼んだ言葉でもあります。 尾形は自分をそう書いた。新選組という名を、使っていません。

残された書幅には、こんな歌があります。

「一人で来て 一人で帰るも 迷なり 来るも去らぬも 憐なり」

島田魁は記録を残し、永倉新八は回想を書き、斎藤一はほとんど語らなかった。 尾形は、その斎藤と同じ側です。

そして語らなかった隊士の生涯が、子孫の手元に残った紙一枚から 145 年後に出てきました。

よくある質問

尾形俊太郎は何をした人ですか。

新選組の副長助勤・諸士取調兼監察・文学師範です。近藤勇の信頼が厚く、江戸への隊士募集や長州出張に随行しました。

尾形俊太郎はいつ死んだのですか。

大正 2 年(1913 年)6 月 13 日、満 74 で死去しました。長く行方不明とされていましたが、2013 年の資料発見によって判明しました。

尾形俊太郎の消息はどうやって分かったのですか。

平成 25 年(2013 年)、子孫から霊山歴史館に寄贈された漢詩書と、共に発見された文書の解析によって明らかになりました。

会津まで新選組に残った幹部は誰ですか。

副長助勤としては尾形俊太郎と斎藤一の二人だけです。母成峠の敗走後も会津にとどまりました。

尾形俊太郎の年表

出来事
1839 年肥後国熊本藩領来民に生まれる(天保 10 年 4 月 26 日)。本姓は三嶋
1863 年新選組に入隊。6 月の編成で副長助勤
1864 年 6 月池田屋事件は留守居役で不参加
1864 年 12 月行軍録で五番組組頭に就任
1865 年 4 月諸士取調役兼監察方および文学師範となる
1865〜66 年近藤勇の長州出張に二度随行
1867 年 6 月幕臣取立で見廻組格となる
1868 年 1 月鳥羽・伏見の戦いで目付を務める
1868 年 10 月 6 日母成峠の戦いで敗走(慶応 4 年 8 月 21 日)。翌日、斎藤一ら 38 名との宿泊記録を最後に消息を絶つ
1869 年熊本に戻り、姓を三嶋に戻して結婚(2013 年の資料で判明)
1903 年椎持へ転居し、須屋の集落で私塾を開く
1913 年 6 月 13 日死去。満 74

会津まで共に残った斎藤一、記録を残した島田魁、隊士の全体は新選組隊士、隊の歩みは新選組で扱っています。

あわせて読みたい