原田左之助とは?新選組十番隊組長の槍と腹の傷、最期を解説

新選組の幹部で、刀ではなく槍を得物とした人物がいます。原田左之助、十番隊組長です。
目次
原田左之助とは何をした人か
原田は新選組の十番隊組長を務めました。池田屋事件にも禁門の変にも出動しています。
天保 11 年(1840 年)、伊予松山藩に生まれました。ただし武士ではありません。中間、つまり武家に仕えて雑務や供回りを担う奉公人の身分です。
新選組は、身分の低い者が武士として振る舞える場所でした。 近藤勇は多摩の農家の出、土方歳三も同様です。原田はさらに下から出て、幹部にまで上がりました。
槍の使い手
原田の得物は槍でした。種田流の槍術を修めたと伝えられます。
新選組といえば刀の集団という印象がありますが、実戦では槍のほうが有利な場面が多いのも事実です。間合いが長く、屋外の乱戦では威力を発揮します。
隊内で槍を専門とする幹部がいたことは、この集団が見た目より実戦的だったことを示しています。
腹の傷の逸話
原田について最もよく語られるのが、腹の傷です。
武士でない身分を侮辱された際、「切腹の作法も知らぬ」と言われたことに憤り、その場で腹を切ってみせた――そして死ななかった、という話が伝えられています。原田はその傷跡を、後々まで人に見せて自慢したといいます。
この逸話がどこまで事実かは確かめようがありません。 ただ、彼の人物像を語るときに必ず引かれる話であり、身分をめぐる劣等感と、それをはねのける気性という原田像の中心にあります。
上野での最期
慶応 4 年(1868 年)、鳥羽伏見に敗れた新選組は江戸へ退きます。
このとき原田は隊を離れ、彰義隊に加わったとされます。旧幕臣たちが上野に立てこもった一団です。
そして上野戦争で負傷し、まもなく死去したとされます。ただし隊士名簿や墓所といった確定的な資料を欠いており、最期の経緯は有力説の域を出ません。 生年の月日も不詳のため、没年齢は満 27 か 28(数えで 29)となります。新政府軍の作戦を指揮していたのは大村益次郎で、戦いは一日で終わっています。
近藤勇が板橋で斬られ、原田が上野で倒れ、翌年には土方歳三が箱館で戦死する。 試衛館から出た者たちは、二年のうちに相次いで失われました。
生存説について
原田には、上野で死なずに大陸へ渡り、馬賊になったという説が語られることがあります。
これは確かな根拠のない俗説です。同時代の記録に基づくものではなく、後年の読み物や噂を通じて広まったとみられます。
同種の生存説は幕末の人物にしばしば付きまといます。劇的な最期を遂げた人物ほど、生きていてほしいと願われたということでしょう。
原田左之助の写真
原田の写真とされるものが伝えられていますが、新選組隊士の肖像写真は真贋の定まらない例が多く、扱いには注意が要ります。
確実に本人と分かる写真が残るのは土方歳三ら一部に限られ、山南敬助や沖田総司については、流布している画像の裏づけが取れていません。
原田左之助の年表
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