幕末の偉人

鈴木三樹三郎とは?新選組九番隊組長から官軍へ転じた男

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鈴木三樹三郎とは?新選組九番隊組長から官軍へ転じた男

新選組の組長を務めた者で、最後まで生き残ったのはこの人です。 鈴木三樹三郎。九番隊組長を務め、のちに隊を離れて敵側に回りました。

目次

鈴木三樹三郎とは何をした人か

鈴木は新選組九番隊組長です。読みは「すずき みきさぶろう」。

参謀伊東甲子太郎実弟にあたります。兄とともに入隊し、兄とともに離脱しました。

天保 8 年 7 月 15 日——西暦 1837 年 8 月 15 日、常陸志筑藩士・鈴木専右衛門忠明の次男として生まれています。

経歴は一本道ではありません。 新選組の組長 → 御陵衛士 → 薩摩軍 → 新政府の警察官。幕府側の武装組織の幹部が、そのまま新政府の官吏になった例です。

大正 8 年(1919 年)7 月 11 日に没しました。満 81 歳。組長を務めた経験を持つ人物としては、最後の生き残りでした。

鈴木三樹三郎の写真

鈴木三樹三郎の写真
鈴木三樹三郎 肖像写真出典: Wikimedia Commons Public domain

鈴木三樹三郎が新選組に入るまで

若い頃の鈴木は、素行で身を持ち崩しています。

父が藩から追放されたのち、高浜村(現在の茨城県石岡市)で私塾を営みました。父の死後は数え 16 歳——満では 14 か 15 の鈴木が塾を継ぎますが、授業を疎かにし、「楠多聞丸」と大書した旗を掲げて合戦の真似事ばかりしていたため塾生が減り、閉鎖に至ったと伝えられます。

その後、同藩士・寺内増右衛門の養嗣子となって藩の役に就いたものの、飲酒などの素行不良で離縁されました。

脱藩して江戸の兄・伊東甲子太郎のもとに身を寄せ、桜田門外の変のあと江戸を離れて常陸に数年隠棲します。

元治元年(1864 年)10 月、旧知の藤堂平助から隊士募集の話を受け、兄や篠原泰之進らとともに上京。正式に新選組に加盟しました。

目付を務めたのち、慶応元年(1865 年)に九番隊組長となります。

鈴木三樹三郎はなぜ降格したのか

鈴木については、組長からのちに降格したという記録が伝わっています。

理由として伝えられるのは、意外なものです。学問や弁舌には優れていたが、丁寧すぎる性格が災いした。

荒くれ者の集団を率いるには、話が通じすぎたということでしょう。 新選組の組長は、実戦で前に立ち、隊士を押さえつける役です。学のある物腰が、そこでは強みになりませんでした。

鈴木三樹三郎と油小路事件

慶応 3 年(1867 年)3 月、鈴木は兄らとともに新選組を離れ、御陵衛士(高台寺党)に加わります。孝明天皇陵の警備を名目とした一団で、実態は勤王派としての独立でした。 伊東兄弟はもともと尊王の志を持って入隊しており、転向ではありません。

同年 11 月 18 日、兄伊東甲子太郎が新選組に暗殺されます。

遺体の引き取りは、罠でした。 待ち伏せていた新選組との乱闘になり、鈴木は加納鷲雄・富山弥兵衛とともに斬り抜けて薩摩藩邸に保護されます。藤堂平助と服部武雄はこの場で討たれました。

兄を殺された弟が、その敵と戦う側に回るまで、二か月もかかっていません。

慶応 4 年(1868 年)1 月の鳥羽・伏見の戦いで、鈴木は薩摩藩一番隊に入り、桐野利秋——当時の中村半次郎の指揮下で、伏見奉行所の新選組と戦いました。

かつての自分の隊に、銃口を向けたわけです。

なお、御陵衛士の生き残りが伏見で近藤勇を襲撃した一件には、鈴木は留守で参加していません。

鈴木三樹三郎の戊辰戦争と明治

戊辰戦争では、東征軍の先鋒隊に合流します。

明治元年(1868 年)1 月に結成された赤報隊で二番隊隊長を務めましたが、相楽総三率いる一番隊とは袂を分かち、東海道を進軍しました。

それでも巻き込まれます。 相楽らの偽官軍事件に連座した疑いで投獄され、のちに待遇が改善されて薩摩藩預かりとなりました。

その後は新政府軍の徴兵七番隊に加わり、6 月に軍務局軍曹を拝命。北越と会津の戦線を戦っています。

明治 2 年(1869 年)7 月、弾正台少巡察となります。廃藩置県後に忠良と改名し、司法省や伊那県・千葉県・山形県などで主に司法・警察関係の職を歴任しました。明治 12 年(1879 年)には鶴岡警察署長として天皇の行幸の指揮を執っています。

斎藤一も維新後は警察官になりました。 一方は会津まで幕府側で戦い、一方は途中から官軍側で戦った。それでも二人は、同じ組織に行き着いています。

明治 18 年(1885 年)に福島県二等属を最後に退官し、茨城県石岡町で余生を過ごしました。大正 8 年(1919 年)、老衰により死去。満 81 歳。 墓所は石岡市の東耀寺です。

よくある質問

鈴木三樹三郎は何をした人ですか。

新選組の九番隊組長です。参謀伊東甲子太郎の実弟で、のちに御陵衛士として離脱し、戊辰戦争では新政府側で戦いました。

鈴木三樹三郎と伊東甲子太郎はどういう関係ですか。

実の兄弟です。伊東甲子太郎が兄、鈴木が弟にあたります。常陸志筑藩士・鈴木忠明の子で、兄が伊東家の養子となったため姓が分かれました。

鈴木三樹三郎はいつまで生きたのですか。

大正 8 年(1919 年)7 月 11 日、満 81 歳で死去しました。新選組で組長を務めた人物としては最後の生き残りです。

鈴木三樹三郎は維新後どうなったのですか。

忠良と改名し、司法省や各県で警察・司法の職に就きました。鶴岡警察署長も務め、明治 18 年に退官しています。

鈴木三樹三郎の年表

出来事
1837 年常陸志筑藩士の次男として生まれる(天保 8 年 7 月 15 日)
1852 年父の死後、数え 16 歳(満 14 か 15)で私塾を継ぐが閉鎖に至る
1864 年 10 月伊東甲子太郎らと上京し、新選組に加盟
1865 年九番隊組長となる(のちに降格)
1867 年 3 月兄らとともに離脱し、御陵衛士に加わる
1867 年 12 月 13 日兄が暗殺され、油小路の乱闘を斬り抜けて薩摩藩邸へ逃れる(慶応 3 年 11 月 18 日)
1868 年 1 月鳥羽・伏見の戦いで薩摩藩一番隊として旧隊と戦う
1868 年赤報隊二番隊隊長。のち新政府軍軍曹として北越・会津を転戦
1869 年 7 月弾正台少巡察。のち忠良と改名
1879 年鶴岡警察署長として行幸の指揮を執る
1885 年福島県二等属を最後に退官
1919 年 7 月 11 日茨城県石岡町で死去。満 81 歳

兄は伊東甲子太郎、同じ道を歩んだ藤堂平助、隊士の全体は新選組隊士、隊の歩みは新選組で扱っています。

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