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吉村貫一郎とは?『壬生義士伝』の主人公になった実在の隊士

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吉村貫一郎とは?『壬生義士伝』の主人公になった実在の隊士

小説と映画で最も知られた新選組隊士の一人は、史実の記録が驚くほど薄い人物です。 吉村貫一郎。今日流通している人物像は、ほぼ創作です。

目次

吉村貫一郎とは何をした人か

吉村は新選組諸士取扱役兼監察方であり、撃剣師範でした。読みは「よしむら かんいちろう」。本名は嘉村権太郎です。

盛岡藩目付・嘉村弓司の子として生まれました。生年は天保 10 年(1839 年)とされますが確定していません。

慶応 4 年 1 月 6 日——西暦 1868 年 1 月 30 日頃に戦死したとみられますが、明確な忌日や死亡状況は不明です。

吉村貫一郎の史料上の経歴

まず、史料から言えることを並べます。

『盛岡名人忌辰録』には新当流師範上村家の高弟の一人として記載されます。

文久 2 年 12 月に同藩重臣の軍役人数として江戸に出、元治元年 2 月には北辰一刀流の千葉道三郎に入塾。 慶応元年 1 月、27 歳のときに盛岡へ下向を命じられると、同月 16 日には出奔しました。

その後、「吉村貫一郎」の名で新選組の隊士募集に応じて上京します。

そして、記録に残る働きは「実務」です。

慶応元年 11 月、大目付永井尚志の長州詰問使として、近藤勇武田観柳斎伊東甲子太郎山崎烝尾形俊太郎服部武雄らとともに広島まで随行。

近藤らの帰京後も山崎烝と広島に残留したとみられ、慶応 2 年 6 月の小瀬川口の戦いの状況を報告した記録が残ります。

慶応 3 年 6 月 15 日、吉村と山崎が西本願寺と交渉することで、屯所の不動堂村への移転が決まりました。 同月 23 日付けで見廻組並に取り立てられています。

大政奉還後の 11 月頃には薩摩藩家老・小松清廉の動向を探っていました。

そして同月 18 日の伊東甲子太郎謀殺の際には、山崎らとともに盛宴を張り、伊東を酔わせる役回りを引き受けたといいます。

つまり吉村は、山崎烝と組んで動く監察の実務要員でした。 探索・交渉・外交随行。撃剣師範であり北辰一刀流の門人でもありましたが、現存史料で具体的に追えるのは剣ではなく、情報と折衝の仕事です。

吉村貫一郎の最期

慶応 4 年(1868 年)1 月 3 日、伏見奉行所に立て籠もり、続く鳥羽・伏見の戦いで戦死したものと考えられます。

ただし、記録が食い違います。

御香宮の戊辰東軍戦死者霊名簿には「正月六日淀ニ於テ戦死 諸士調役 嘉村権太郎」。『戦亡殉難志士人名録』には「正月三日ヨリ六日ニ亘ル山城、鳥羽、八幡、山崎ノ各地戦闘ニ於テ戦死ス」。嘉村家の過去帳には「明治三年一月十五日 祐尚弟 嘉村権太郎 於摂州伏見戦死 于時享年三十一」。

享年 31 という記載から逆算すると、生年は天保 10 年前後になります。

「壬生義士伝」の吉村貫一郎は創作である

ここが最も重要です。

一般に流通する吉村像は、子母澤寛の『新選組物語』「隊士絶命記」による創作が元になっています。

子母澤の描く吉村は、こうです。 三十七、八歳。痩せ形で背が高く、左の目の下に小さな傷跡。おとなしい性格で学問があり、剣術も使え、特に書をよくした。盛岡藩出身の微禄の扶持取りで、漆掻きなどをして妻子五人を養っていたが、どうしても食えないので妻と相談のうえ脱藩し、単身で大坂に出た。その後も仕送りは続けていた。

見廻組並に選ばれたとき、土方より三十俵二人扶持を頂き、うれし泣きをした。新選組が伏見奉行所に引き移る際に貰った百両を妻子に届けた。

そして最期は——鳥羽・伏見の後に味方とはぐれ、網島の盛岡藩仮屋敷に身を投じ、勤王のために奉公したいと言うが、結局は妻子を養う俸禄が欲しいだけであり、妻子に忠義を尽すのだと吐露する。 留守居役の大野次郎右衛門は「君は武士の魂をもっていない」と言い、切腹するように仕向けたので、吉村は屋敷内で腹を切った。

この筋書きの下敷きは、西村兼文の記述です。 西村は、戦争後に吉村が大坂へ逃げ下り、盛岡藩の仮宅で旧知の留守居に匿ってくれと頼んだが、変心は不義であるとして割腹を諭され切腹した、と書いています。そして西村の著作は捏造が多いことで知られます。

「妻子のために働く貧しい隊士」という像は、史料から出たものではありません。

史料が示す吉村は、盛岡藩目付の子で、二百石六人扶持の兄を持ち、監察として広島まで外交随行し、西本願寺と屯所移転を交渉した実務家です。 貧しくて漆を掻いていた人物像とは、かなり離れています。

それでも創作のほうが有名になりました。 浅田次郎の『壬生義士伝』はこの子母澤の像を発展させたもので、今日「吉村貫一郎」の名で知られているのは、ほぼこちらです。

よくある質問

吉村貫一郎は実在したのですか。

実在します。本名は嘉村権太郎で、盛岡藩目付の子。新選組の諸士取扱役兼監察方・撃剣師範を務めた記録が残っています。

『壬生義士伝』の吉村貫一郎は史実ですか。

違います。妻子のために脱藩した貧しい隊士という像は、子母澤寛の創作が元になっています。史料上の吉村は盛岡藩目付の子で、監察として外交随行や交渉を担った実務家です。

吉村貫一郎はどのように死んだのですか。

慶応 4 年 1 月、伏見奉行所に立て籠もり、鳥羽・伏見の戦いで戦死したと考えられます。ただし忌日や状況は記録が食い違い、確定していません。

吉村貫一郎は何をしていた隊士ですか。

撃剣師範を務める一方、史料で具体的に追えるのは監察の実務です。長州詰問使として広島まで随行し、山崎烝と組んで探索を担い、西本願寺と屯所移転を交渉しました。

吉村貫一郎の年表

出来事
1839 年頃盛岡藩目付・嘉村弓司の子として生まれる(享年からの逆算)
1862 年 12 月同藩重臣の軍役人数として江戸へ
1864 年 2 月北辰一刀流の千葉道三郎に入塾
1865 年 1 月盛岡下向を命じられ出奔。「吉村貫一郎」の名で新選組に応じる
1865 年 11 月長州詰問使として近藤勇らと広島まで随行
1866 年 6 月小瀬川口の戦いの状況を報告
1867 年 6 月山崎烝と西本願寺と交渉し、屯所移転が決まる。見廻組並に取立
1867 年 12 月伊東甲子太郎謀殺の際、伊東を酔わせる役回りを担ったといわれる
1868 年 1 月伏見奉行所に立て籠もり、鳥羽・伏見の戦いで戦死したとみられる

組んで動いた山崎烝、同じ監察の尾形俊太郎、隊士の全体は新選組隊士、隊の歩みは新選組で扱っています。

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