幕末の偉人

伊東甲子太郎とは?新選組を割って油小路に散った理論家を解説

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伊東甲子太郎とは?新選組を割って油小路に散った理論家を解説
伊東甲子太郎 肖像 / 出典: Wikimedia Commons Public domain

新選組に、学識で迎えられ、思想の違いから殺された幹部がいます。伊東甲子太郎です。

目次

伊東甲子太郎とは何をした人か

伊東は、新選組の参謀を務めた人物です。

新選組は、近藤勇を中心とする剣客の集団でした。そこへ伊東は、剣だけでなく学問と弁舌を備えた理論家として迎えられます。隊にとっては、格の高い頭脳を得た形でした。

しかし伊東の思想は、隊の方針とは根本的に違いました。伊東は勤王――天皇を中心に据える立場だったのです。幕府を支える新選組のなかで、この違いは埋めようがありませんでした。

やがて伊東は隊を割って出て、そして殺されます。

学問と剣を備えた男

伊東は常陸(現在の茨城県)の出身とされ、江戸で学問と剣を修めました。剣は北辰一刀流、学問は水戸学の影響を受けた尊王の思想です。水戸は尊王攘夷の一大拠点であり、伊東の思想はこの土壌から来ています。

その伊東を、新選組が江戸で勧誘しました。隊士の藤堂平助が、かつての剣の仲間である伊東を引き入れたとされます。

伊東は、自らの思想を隊のなかで実現できると考えて加わったとみられます。新選組を、内側から勤王の方向へ動かせるのではないか、という計算があったのかもしれません。

御陵衛士

しかし、新選組を勤王へ転換させることはできませんでした。近藤・土方の路線は揺るがなかったのです。

慶応 3 年(1867 年)、伊東は新選組を離れます。名目は、孝明天皇の陵を守るというものでした。この一団を御陵衛士(高台寺党とも呼ばれる)といいます。

伊東とともに出たのが、彼を隊に引き入れた藤堂平助らでした。連れてきた者が、連れてきた相手とともに去ったことになります。一方、斎藤一も御陵衛士に加わりましたが、これは新選組側の潜入だったとする説が有力です。

御陵衛士は、単なる離脱者の集まりではありません。勤王の立場から、独自に政治的な活動を行う集団でした。伊東は薩摩藩とも接触していたとされます。

油小路事件

新選組にとって、伊東は危険な存在でした。隊の内情を知り、勤王方と通じ、独自に動く。放置できない相手です。

慶応 3 年 11 月(西暦では 1867 年 12 月)、新選組は伊東を謀殺します。

酒席に招いて帰り道を襲った、とされます。伊東は不意を突かれ、絶命しました。

そして新選組は、伊東の遺体を油小路の路上に放置します。遺体を引き取りに来る御陵衛士を、待ち伏せるためでした。

現れた御陵衛士に、新選組が襲いかかります。油小路事件です。ここで藤堂平助ら数人が討たれました。伊東を新選組に取り次いだ藤堂が、その伊東の遺体のそばで死んだことになります。

歌を詠む志士

伊東は、和歌をよくする人でもありました。剣と学問だけでなく、歌の才も備えた人物です。

斬られた際に言葉を残したとする伝承がいくつかありますが、斬られた直後の人物の言葉が正確に伝わることは稀で、いずれも後世に整えられた可能性があります。確たる典拠のあるものではありません。

伊東という人物の像は、理論家でありながら殺された志士という枠のなかで語られてきました。学問も剣も歌も備え、思想に殉じた――そうした像が、後世に形づくられています。

伊東甲子太郎の年表

出来事
1835 年常陸の出身とされる
1860 年代前半江戸で北辰一刀流と尊王の学を修める
1864 年藤堂平助の縁で新選組に加わる。参謀となる
1867 年春新選組を離れ、御陵衛士を組織
1867 年 12 月新選組に謀殺され、油小路事件が起こる

新選組については新選組と壬生、ともに散った人物は藤堂平助、潜入したとされる隊士は斎藤一で扱っています。

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