会津藩とは?白虎隊と戊辰戦争をわかりやすく解説

幕末において、もっとも重い代償を払った藩はどこか。多くの人が会津藩を挙げます。忠義を貫いたがゆえに賊軍とされ、城下を焼かれ、少年たちまでもが命を落としました。
目次
会津藩とは
会津藩は、現在の福島県西部を治めた23万石の藩です。藩祖は徳川家光の異母弟にあたる保科正之で、幕府とは特別に近い関係にありました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在 | 陸奥国会津(現在の福島県会津若松市を中心とする地域) |
| 石高 | 23万石 |
| 藩主家 | 会津松平家 |
| 藩祖 | 保科正之(三代将軍・徳川家光の異母弟) |
| 幕末の藩主 | 松平容保 |
| 藩校 | 日新館 |
会津藩の運命を決めた「家訓」
会津藩を理解する鍵が、藩祖・保科正之の遺した家訓十五箇条です。その第一条には、将軍家に一心に忠義を尽くすべきこと、もし藩主が二心を抱くなら家臣は従ってはならないという趣旨が記されています。
この一文が、200年後に会津藩の運命を決めました。
幕末、幕府の権威が揺らぎ、多くの藩が去就を計算していたとき、会津藩には「幕府を見限る」という選択肢が事実上ありませんでした。家訓がそれを禁じていたからです。
松平容保はなぜ京都守護職を引き受けたのか
1862年、幕府は京都の治安を回復するため京都守護職という新しい役職を設け、会津藩主・松平容保にこれを命じました。
容保は当初、固辞しています。 京都は尊王攘夷派の志士が集まり、殺傷事件が頻発する危険な土地でした。しかも財政の負担は膨大です。家臣たちも強く反対しました。
それでも受諾に至ったのは、家訓を持ち出されたからだと伝えられます。将軍家への忠義を第一とする家訓に照らせば、断ることは藩祖の教えに背くことになる。容保はそう説かれて折れました。
この決断が、会津藩を幕末の最前線に立たせます。 京都守護職の配下として組織されたのが新選組であり、池田屋事件も禁門の変も、会津藩が当事者となりました。
治安を守る立場である以上、取り締まる相手は長州をはじめとする尊攘派の志士たちです。長州にとって会津は不倶戴天の敵となり、「薩賊会奸」という言葉まで生まれました。
会津藩はなぜ朝敵とされたのか
1868年の戊辰戦争が始まると、会津藩は新政府から討伐の対象とされます。
理由は、京都での経緯にありました。薩長同盟を経て新政府の中心となった薩摩・長州にとって、会津は自分たちを弾圧した相手です。とくに長州の恨みは深いものでした。
会津藩は恭順の意を示していました。 藩主・容保は謝罪の姿勢を明らかにし、新政府への嘆願を繰り返しています。しかし受け入れられませんでした。
これに対し、東北・北越の諸藩は奥羽越列藩同盟を結成して抵抗します。「会津の処分は苛酷にすぎる」という不満が、同盟の結束を支えていました。
会津藩と白虎隊の悲劇(会津戦争)
1868年秋、新政府軍は会津へ攻め入ります。
会津藩は年齢別に部隊を編成していました。玄武隊(50歳以上)、青龍隊(36〜49歳)、朱雀隊(18〜35歳)、そして白虎隊(16〜17歳)です。白虎隊は本来、予備の部隊でした。
戦況の悪化により、その白虎隊も戦線へ投入されます。そのうちの一隊が戦いに敗れて飯盛山へ退いたとき、城下から立ち上る煙を目にしました。城が落ちたと判断した20名が、その場で自刃します。
しかし、城はまだ落ちていませんでした。 燃えていたのは城下の町であり、鶴ヶ城はなお一か月にわたって籠城を続けます。誤認による死でした。
一名が命をとりとめ、その証言によって顛末が後世に伝えられています。
籠城戦では、女性たちも武器を取って戦い、あるいは足手まといになることを避けて自害しました。会津藩家老・西郷頼母の一族21名が自刃した悲劇も知られています。
1868年10月、鶴ヶ城は開城しました。 約1か月の籠城の末のことです。
会津藩のその後と斗南藩
降伏した会津藩に下された処分は、苛酷なものでした。
旧藩士とその家族は、本州最北端の斗南(現在の青森県むつ市周辺)へ移されます。名目は3万石でしたが、実際に収穫できる米は乏しく、火山灰地で作物が育ちません。移住した人々は飢えと寒さに苦しみ、多くの命が失われました。
「北の地に流された」という感覚は、会津の人々に長く残りました。 薩長中心の明治政府に対する感情的なしこりは、その後も世代を越えて語り継がれます。
会津若松市と山口県萩市の和解が公式に語られるようになったのは、ようやく近年のことです。
よくある質問
会津藩はどこにあった藩ですか。 現在の福島県会津若松市を中心とする地域を治めた、23万石の藩です。
松平容保はなぜ京都守護職を引き受けたのですか。 当初は固辞していましたが、将軍家への忠義を第一とする藩祖・保科正之の家訓を持ち出されて受諾したと伝えられます。
白虎隊とは何ですか。 会津藩が編成した16〜17歳の少年部隊です。飯盛山で城下の煙を見て落城と誤認し、20名が自刃しました。実際には城はまだ落ちていませんでした。
会津藩はなぜ賊軍とされたのですか。 京都守護職として尊攘派を取り締まった経緯から、新政府の中心となった薩摩・長州に敵視されたためです。恭順の意を示しましたが受け入れられませんでした。
あわせて読みたい

安政の大獄とは?なぜ起きた誰が処刑されたかを解説
大老・井伊直弼が反対派を一斉に処断した安政の大獄。なぜ起きたのか、誰が処刑されたのか、そして桜田門外の変へどうつながったのかを、年表とともに史実に沿ってわかりやすく解説します。

幕末の藩とは?薩摩長州など主要藩をわかりやすく解説
幕末に時代を動かした薩摩・長州・土佐・肥前・会津などの藩を一覧で整理。それぞれの石高と立場、なぜ雄藩が幕府を上回る力を持てたのかを史実に沿ってわかりやすく解説します。

幕末の年表とは?黒船から明治までの流れをわかりやすく解説
1853年の黒船来航から1869年の五稜郭開城まで、幕末16年の出来事を年表で整理。各事件のつながりと、そのとき誰が何をしていたのかを史実に沿ってわかりやすく解説します。