幕末の偉人

相馬主計とは?新選組に幕を引いた最後の隊長

約7分で読めます
相馬主計とは?新選組に幕を引いた最後の隊長

新選組の歴史に、最後の署名をした男がいます。 相馬主計。土方歳三が死んだ四日後に隊長となり、数日で隊を閉じました。

目次

相馬主計とは何をした人か

相馬は新選組の隊士です。読みは「そうま かずえ」。名は肇、のちに相馬主殿(とのも)と称しました。新選組時代の名が「主計」です。

箱館戦争で新選組が降伏する際、戦死した土方歳三に代わって隊長として署名しました。 そのため新選組最後の隊長、あるいは最後の局長と呼ばれます。

常陸国笠間藩藩士・船橋平八郎義方の子として生まれました。生年は天保 6 年(1835 年)とも天保 14 年(1843 年)ともいわれ、確定していません。

没年も確定していません。 明治 8 年(1875 年)2 月以降に死去したとされますが、近年は明治 30 年代以降も存命だった可能性を示す証言が出ています。

相馬主計の写真

相馬主計の写真
相馬主計 肖像写真(1870 年頃)出典: Wikimedia Commons Public domain

相馬主計が新選組に入るまで

慶応元年(1865 年)に脱藩し、江戸幕府の歩兵徴募に応じました。

第二次長州征伐では三津浦——現在の愛媛県松山市に駐屯しています。

長州征討軍が解散したあと、新選組に入隊しました。 加入時期は不明ですが、慶応 4 年 1 月の鳥羽・伏見の戦いの時点では既に所属しています。

入隊がかなり遅い隊士です。 近藤勇土方歳三が京都で名を上げた時期を知らず、京都時代の末に加わって、そのまま鳥羽・伏見以後の敗走を歩いた世代です。

甲陽鎮撫隊では局長付組頭に就任し、頭角を現します。

相馬主計は近藤勇に命を救われた

慶応 4 年(1868 年)4 月、近藤勇が流山で新政府軍に投降し、板橋の総督府に出頭します。

相馬は、近藤を救おうとしました。

幕府の陸軍軍事方・松濤権之丞の書状を携え、近藤の助命を求めて板橋を訪れます。

しかし近藤は既に捕縛されており、相馬も近藤の仲間として捕縛されました。

慶応 4 年 4 月 25 日——西暦 1868 年 5 月 17 日、相馬は近藤と共に処刑される予定でした。

それを止めたのは近藤自身です。 近藤勇の嘆願により、一緒に捕縛されていた野村利三郎とともに処刑を免れ、笠間藩に預けられて謹慎となりました。

斬首される当日に、他人の命を助けている。 近藤の最期を語るとき、この一件は落とせません。

相馬主計が新選組を閉じるまで

相馬は謹慎から脱走します。

彰義隊に参加し、春日左衛門の指揮下に入りました。彰義隊の瓦解後は旧幕臣と磐城方面を転戦し、仙台で土方歳三と再会します。

榎本武揚らが箱館に築いた政権のもとでは、主に箱館市中の取締にあたりました。

明治 2 年 5 月 11 日——西暦 1869 年 6 月 20 日、土方歳三が箱館で戦死します。

弁天台場に籠っていた新選組隊士は、相馬を隊長として恭順の書状に名を連ねました。 高松凌雲の書簡によれば、相馬が隊長に就任したのは明治 2 年 5 月 15 日——西暦 1869 年 6 月 24 日です。

そして新選組の歴史は、この署名で終わりました。

文久 3 年(1863 年)3 月の壬生浪士から、明治 2 年 5 月の弁天台場まで。6 年です。 五稜郭をめぐる戦いの終結とともに、隊は消えました。

相馬主計の流罪と謎の最期

明治 3 年 10 月 10 日——西暦 1870 年 11 月 3 日、相馬は伊東甲子太郎暗殺の嫌疑をかけられ、伊豆新島に流罪となります。

同じ日、大石鍬次郎は同じ嫌疑で斬首されました。

新島では大工棟梁・植村甚兵衛に身柄を預けられ、その場所で寺子屋を開きました。 また甚兵衛の次女マツと結婚しています。

明治 5 年(1872 年)に赦免され、妻と東京に移住。明治 6 年(1873 年)に豊岡県へ 15 等出仕として勤務し、翌年 14 等出仕に昇進、主に司法方面の職に就きました。

しかし明治 8 年(1875 年)2 月、突如免官され、東京に戻ります。

その後の死が、はっきりしません。

通説では自殺です。妻マツが外出先から帰ってきたとき、相馬は既に腹を切っていたといいます。相馬はマツに「他言無用」と言い残し、マツはそれを守り通しました。 そのため相馬の死の詳細や菩提寺は、現在も不明です。

一方で、近年見つかった証言をもとに、相馬は明治 30 年代以降も存命で、ある地方の郡長を務めていたのではないかとする見方が出ています。 文久 3 年(1863 年)の姉小路公知暗殺事件への関与も示唆されているといいます。ただしこれは未検証の説で、証言の出所を含めて検討の途上にあります。

新選組を閉じた男の、閉じ方が分かっていません。

よくある質問

相馬主計は何をした人ですか。

新選組最後の隊長です。箱館戦争で土方歳三が戦死したあと、降伏の書状に隊長として署名し、隊の歴史を閉じました。

相馬主計はなぜ処刑を免れたのですか。

近藤勇の助命嘆願によります。近藤と共に処刑される予定でしたが、近藤自身の願いにより野村利三郎とともに免れ、笠間藩に預けられました。

新選組が終わったのはいつですか。

明治 2 年 5 月(1869 年 6 月)、箱館の弁天台場で相馬を隊長として恭順の書状に署名した時点です。文久 3 年の壬生浪士から数えて 6 年でした。

相馬主計はどのように死んだのですか。

通説では明治 8 年(1875 年)以降に自殺したとされますが、妻が口を閉ざしたため詳細は不明です。近年は明治 30 年代以降も存命だった可能性を示す証言も出ています。

相馬主計の年表

出来事
生年不詳常陸国笠間藩士・船橋平八郎義方の子として生まれる(1835 年説・1843 年説)
1865 年脱藩し、幕府の歩兵徴募に応じる
第二次長州征伐三津浦(現在の松山市)に駐屯
1868 年 1 月まで新選組に入隊。甲陽鎮撫隊で局長付組頭
1868 年 4 月近藤勇の助命を求めて板橋へ。共に捕縛される
1868 年 5 月 17 日近藤の嘆願により処刑を免れ、笠間藩に預けられる(慶応 4 年 4 月 25 日)
1868 年謹慎を脱走し彰義隊へ。瓦解後、仙台で土方歳三と再会
1869 年 6 月 24 日土方戦死後、弁天台場で隊長に就任(明治 2 年 5 月 15 日)。降伏の書状に署名
1870 年 11 月 3 日伊東甲子太郎暗殺の嫌疑で伊豆新島に流罪(明治 3 年 10 月 10 日)
1872 年赦免。翌年から豊岡県に出仕
1875 年 2 月突如免官され東京へ。以後の死は通説では自殺、近年は存命説も

隊を率いた土方歳三、命を救った近藤勇、隊士の全体は新選組隊士、隊の歩みは新選組で扱っています。

あわせて読みたい