斎藤一とは?新選組三番隊組長の生涯と妻・愛刀を解説

新選組の隊士の多くは、幕末のうちに命を落としました。斎藤一はそうではありません。京都で戦い、会津で最後まで残り、名を変えて明治を生き、大正まで生きた人です。
目次
斎藤一とは何をした人か
斎藤一は、新選組の三番隊組長をつとめた剣客です。撃剣師範として隊士の稽古も見ており、近藤勇・土方歳三に次ぐ隊の中核の一人でした。
なお、隊名は資料によって「新選組」とも「新撰組」とも書かれます。どちらも当時から使われた表記で、どちらかが誤りというわけではありません。
天保 15 年(1844 年)、江戸の生まれ。父は明石の出身で足軽だったとされますが、その身分や経歴には異説もあります。本名は山口一といいました。江戸で人を斬ってしまい京へ逃れた、という話が伝わりますが、この経緯を確実に裏づける記録はありません。
斎藤一の写真

斎藤一の御陵衛士への潜入
斎藤を語るうえで外せないのが、新選組を離れた伊東甲子太郎の一派(御陵衛士)に加わった一件です。
伊東は勤王の思想を持ち、隊内で近藤らと立場を異にして分離しました。斎藤はその御陵衛士に身を投じます。しかし後に新選組へ戻り、伊東の側の動向を伝えました。
近年の研究では、この離脱は最初から新選組側の指示による潜入だったとみる説が有力です。伊東は油小路で新選組に討たれることになります。ただし斎藤がそこで具体的に何を伝えたのか、それが襲撃をどこまで左右したのかは確定していません。いずれにせよ、剣の腕だけでなく、任務を負って敵中に置ける人物として遇されていたことはうかがえます。
斎藤一はなぜ会津に残ったのか
鳥羽伏見の戦いに敗れたのち、新選組は各地を転戦しながら北へ向かいました。戊辰戦争です。
会津まで来たところで、隊の進路が分かれます。土方歳三は北へ向かい、なお戦い続ける道を選びました。斎藤は会津に残ることを選びます。
落ちようとしている城を前にして去るのは武士のすることではない――そうした趣旨の言葉を残したと伝えられます。会津は新選組を受け入れ、庇護してきた土地でした。恩を受けた側が、最も苦しいときに背を向けない。斎藤の選択は、その一点で一貫しています。
会津降伏後は、旧会津藩士とともに斗南(現在の青森県)へ移りました。厳しい土地での生活が続きます。
斎藤一の妻・時尾
明治に入り、斎藤は名を藤田五郎と改めました。そして会津藩士・高木小十郎の娘、時尾と結婚します。
この結婚は、旧会津藩の主だった人々が取り持ったものと伝えられます。会津藩主だった松平容保が仲人に名を連ねたとも言われ、斎藤が会津の側からどれほど信を置かれていたかを物語ります。
時尾は会津戦争を経験した女性で、城内で負傷者の世話にあたった一人でした。戦った男と、戦を見た女が、戦のあとに家を作ったのです。二人の間には子が生まれ、家系は続きました。
斎藤一の愛刀と剣術
斎藤の刀については、しばしば特定の一振りの名が挙げられます。ただし確たる裏づけのある伝承ではありません。新選組の隊士の愛刀は、後世の読み物のなかで名前が固まっていったものが多く、斎藤の場合もその例に漏れないためです。
流派についても諸説あります。無外流を学んだとする説が知られますが、確定していません。
よく語られるのが「突きの名手」「左利きだった」という人物像です。これらも同時代の確実な記録に基づくというより、後年の伝聞や創作を通じて広まった要素を含みます。確かなのは、撃剣師範として隊士に稽古をつける立場にあったという事実のほうです。
斎藤一の警視官としての後半生と西南戦争
明治になった斎藤は警視庁に出仕します。旧幕府側で戦った男が、新政府の警察官になったのです。
明治 10 年(1877 年)の西南戦争では、警視隊の一員として九州へ渡り従軍しました。抜刀して斬り込む部隊に加わり、負傷しています。幕末に刀で戦った世代が、刀で戦った最後の戦争でした。
その後は東京高等師範学校などに勤め、静かに晩年を過ごします。大正 4 年(1915 年)に死去。満 71 歳(数え 72 歳)でした。墓は会津若松市の阿弥陀寺にあります。京都でも江戸でもなく、会津に眠っているのです。
斎藤一の年表
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