幕末の偉人

松本捨助とは?入隊を断られ続けて4年後に念願を果たした隊士

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松本捨助とは?入隊を断られ続けて4年後に念願を果たした隊士

新選組には、入りたくても入れなかった人がいます。 松本捨助。四年かけて念願を果たしました。

目次

松本捨助とは何をした人か

松本は新選組八番組隊士です。読みは「まつもと すてすけ」。土方歳三の縁戚にあたります。

弘化 2 年 4 月 24 日——西暦 1845 年 5 月 29 日、武蔵国多摩郡本宿村——現在の東京都府中市本宿の名主・松本友八の長男として生まれました。

大正 7 年(1918 年)4 月 6 日死去。満 72。 墓は東京都府中市の本宿共同墓地です。

松本捨助は何度も断られた

近藤道場で天然理心流を学びました。

文久 3 年(1863 年)1 月に結成された浪士組にも参加を望みましたが、家族の反対があり断念します。

それでも諦めません。 上洛し、文久 3 年 11 月、壬生浪士組から名を改めた新選組入隊を懇願しますが、断られました。

理由は、長男であったためと言われます。

名主の家の跡取りを死地に送るわけにはいかないという判断でしょう。新選組は隊士を集めていた時期でも、こういう線は引いていたことになります。

それでも松本は諦めませんでした。 親を説得し続け、結局入隊したのは慶応 3 年(1867 年)です。

浪士組の結成から数えて四年。 京都での治安維持の時代はほぼ終わり、大政奉還の年でした。

松本捨助の戊辰戦争

入隊してすぐに、新選組は敗走を始めます。

鳥羽・伏見の戦い、甲州勝沼の戦いに参戦しました。

そして会津戦争の時期、仙台にて実質的な局長だった土方歳三から暇を出されました。

縁戚から「もう帰れ」と言われたわけです。松本は離隊し、郷里に帰りました。

四年かけて入った隊を、一年ほどで出ていることになります。そしてそれが、松本を生かしました。 仙台で暇を出された者は、蝦夷地に渡っていません。

松本捨助の後半生

維新後は愛知県で米屋を営み、晩年は八王子で過ごしました。

明治 22 年(1889 年)、土方歳三の甥・佐藤俊宣が不敬罪を免じられて釈放されたとき、捨助も迎えに行っています。

縁戚との付き合いは続いていたことになります。土方は箱館で死に、その甥は明治になって不敬罪で捕まった。その釈放を、暇を出された元隊士が迎えに行っている。

大正 7 年(1918 年)4 月 6 日死去。満 72。

なぜ松本捨助を読むのか

松本の経歴は、新選組の入隊という出来事を裏側から見せてくれます。

入りたい人間が全員入れたわけではありません。 家の事情、跡取りの立場、親の反対。新選組に入った隊士の多くは、次男・三男か、家を失った者か、脱藩者です。

原田左之助は中間、池田七三郎は商人の三男、大石鍬次郎は出奔した幕臣の子、谷三十郎は家が断絶した元藩士。

長男で名主の跡取りという松本の立場は、その逆です。 だから四年かかりました。

そして四年待った結果、彼が見たのは敗走する新選組だけでした。

よくある質問

松本捨助は何をした人ですか。

新選組の八番組隊士です。土方歳三の縁戚で、府中の名主の長男。慶応 3 年に入隊し、鳥羽・伏見と甲州勝沼を戦いました。

松本捨助はなぜ入隊を断られたのですか。

長男であったためと言われます。名主の家の跡取りだったため、家族の反対もあり、文久 3 年に懇願した際は断られました。

松本捨助はいつ新選組に入ったのですか。

慶応 3 年(1867 年)です。文久 3 年の浪士組結成から四年、親を説得し続けてようやく入隊しました。

松本捨助は維新後どうなったのですか。

愛知県で米屋を営み、晩年は八王子で過ごしました。大正 7 年(1918 年)に満 72 で死去しています。

松本捨助の年表

出来事
1845 年武蔵国本宿村の名主・松本友八の長男として生まれる(弘化 2 年 4 月 24 日)
修行期近藤道場で天然理心流を学ぶ
1863 年 1 月浪士組への参加を望むが家族の反対で断念
1863 年 11 月上洛して新選組に入隊を懇願するが断られる
1867 年親を説得し、ようやく入隊。八番組に属す
1868 年鳥羽・伏見の戦い、甲州勝沼の戦いに参戦
1868 年仙台で土方歳三から暇を出され離隊、郷里へ帰る
維新後愛知県で米屋を営み、晩年は八王子で過ごす
1889 年土方の甥・佐藤俊宣の釈放を迎えに行く
1918 年 4 月 6 日死去。満 72

縁戚の土方歳三、同じく身分を越えて入隊した原田左之助池田七三郎、隊士の全体は新選組隊士で扱っています。

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