島田魁とは?新選組を明治に語り継いだ怪力の隊士

今日わかっている新選組の姿は、生き残った隊士の記録に大きく支えられています。 その書き残した側の一人が、島田魁です。
目次
島田魁とは何をした人か
島田は新選組の隊士です。読みは「しまだ かい」。役職は諸士調役兼監察、のちに二番組伍長を兼ねました。
文政 11 年 1 月 15 日——西暦 1828 年 2 月 29 日、美濃国方県郡雄総村(現在の岐阜市長良雄総)の庄屋の次男に生まれています。
新選組の隊士としては、かなり年長です。 近藤勇より 6 歳、土方歳三より 7 歳上にあたります。
そして箱館まで戦い抜き、明治 33 年(1900 年)まで生きました。 没年は 72 歳。新選組の隊士としては、最も長く生きた層の一人です。
島田魁の写真

島田魁が新選組に入るまで
島田の前半生は、養子に出され続けた道のりです。
幼くして羽栗郡石田村の永縄家の養子になり、養父の死後は母方の祖父に預けられます。その頃から剣術に打ち込み、名古屋城内の御前試合で優勝したと伝えられます。
これが目に留まり、大垣藩の嶋田才の養子となって嶋田家を継ぎました。「島田」の姓はここから来ています。
江戸に出て心形刀流・坪内主馬の道場で修行し、そこで師範代を務めていた永倉新八と知り合います。この縁が、のちに島田を新選組へ運びます。
文久 3 年(1863 年)5 月ごろ、すでに上洛していた永倉を追って壬生浪士組に入隊。まもなく改称した新選組で、監察の任に就きました。
島田魁の怪力と体格
島田について語られる話の中心は、その体格です。
身長は約 180 センチと伝えられます。当時としては相当な巨漢で、怪力の持ち主でした。新選組が主催した相撲興行で活躍し、「力さん」と呼ばれたといいます。
有名な逸話が、鳥羽・伏見の戦いの撤退時のものです。重装備の永倉新八が土塀を越えられずにいるのを見た島田は、自分の銃を差し出して「これを掴め」と言い、そのまま土塀の上へ引き上げたと伝えられます。
風貌に似合わず大の甘党でもありました。自分で大鍋いっぱいの汁粉を作って一人で平らげたが、砂糖を入れすぎて糸を引くほどの甘さだったため、ほかの隊士は誰も手を出せなかったといいます。
逸話の細部は後年の回想に拠るもので、裏づけの取れる史料はありません。 ただ、体格と怪力については複数の証言が一致しています。
島田魁と池田屋事件
元治元年(1864 年)6 月、島田は監察としての務めを果たします。
池田屋事件の発端となった古高俊太郎の捕縛に貢献したとされます。古高は長州系の尊王攘夷派の連絡役で、その取り調べから池田屋への襲撃につながりました。
斬るより先に、調べる仕事です。 同じ監察には山崎烝がおり、新選組がなぜ京都で機能したのかを考えるうえで、この役目は外せません。
慶応 3 年 11 月 18 日——西暦 1867 年 12 月 13 日の油小路事件では、服部武雄と斬り合っています。 同年 12 月 18 日(1868 年 1 月 12 日)、御陵衛士の残党が近藤勇を襲撃したとき、島田は護衛として同行していました。馬上で撃たれた近藤の馬を走らせ、その命を救ったのは島田です。
島田魁の明治と『島田魁日記』
明治 2 年 5 月——西暦 1869 年 6 月、箱館で降伏。11 月まで謹慎し、名古屋藩に預けられました。
赦されたのち、京都で剣術道場を開きます。しかし暮らしは楽ではありませんでした。 レモネード屋や雑貨屋も開いたが流行らず、困窮したと伝えられます。
新政府への出仕の話も来ましたが、受けていません。榎本武揚が「旧交を温めたいので宿舎まで来てほしい」と伝えてきたときも、「会いたいという奴の方から出向くのが筋だろう」と断ったといいます。
明治 19 年(1886 年)、西本願寺の夜間警備員となりました。
これは因縁のある場所です。 新選組は慶応元年から慶応 3 年にかけて西本願寺に屯所を置いており、寺にとっては迷惑な居候でした。かつて隊士として居座った寺を、老いた島田が夜ごと守って歩いたわけです。
明治 33 年(1900 年)3 月 20 日、勤務先の西本願寺で倒れて死去。葬儀には永倉新八が参列しました。
島田が残したものは、記録です。 『島田魁日記』をはじめ、隊の名簿や品々を保管し続けました。死んだ同志の菩提を弔うため念仏を欠かさず、近藤勇と土方歳三の戒名を書いた布を、常に懐に入れていたといいます。
それらの資料が、今日の新選組研究を支えています。 現在は京都の霊山歴史館に収蔵されています。
なぜ島田魁を読むのか
新選組について語られる話は、近藤勇・土方歳三・沖田総司に集中しています。その三人はいずれも、自分について書き残していません。
書き残したのは、生き延びた側です。 永倉新八の回想、斎藤一の周辺証言、そして島田の日記と保管品。
新選組が今日まで語られているのは、島田のように「記録する側」に回った隊士がいたからです。 剣ではなく、紙が残しました。
よくある質問
島田魁は何をした人ですか。
新選組の諸士調役兼監察・二番組伍長です。箱館まで戦い抜き、明治になってから『島田魁日記』などの記録を残しました。
島田魁はいつ死んだのですか。
明治 33 年(1900 年)3 月 20 日、勤務先の西本願寺で倒れて死去しました。72 歳です。
島田魁はどれくらい大きかったのですか。
身長約 180 センチと伝えられます。当時としては相当な巨漢で、怪力を活かして相撲興行でも活躍し「力さん」と呼ばれました。
島田魁と島田虎之助は同じ人ですか。
別人です。島田虎之助は直心影流の剣客で、勝海舟に剣と禅を教えた人物です。新選組とは関係がありません。
島田魁の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1828 年 | 美濃国雄総村の庄屋の次男に生まれる(文政 11 年 1 月 15 日) |
| 幼少期 | 永縄家の養子となり、のち大垣藩の嶋田家を継ぐ |
| 江戸期 | 心形刀流・坪内道場で修行し、永倉新八と知り合う |
| 1863 年 5 月ごろ | 壬生浪士組に入隊。新選組で諸士調役兼監察となる |
| 1864 年 6 月 | 古高俊太郎の捕縛に貢献し、池田屋事件につながる |
| 1867 年 12 月 13 日 | 油小路事件で服部武雄と斬り合う(慶応 3 年 11 月 18 日) |
| 1868 年 1 月 12 日 | 襲撃された近藤勇の馬を走らせ、その命を救う(慶応 3 年 12 月 18 日) |
| 1868 年 1 月 | 鳥羽・伏見の戦いで永倉らと決死隊を組む |
| 1869 年 6 月 | 箱館で降伏(明治 2 年 5 月)。以後 11 月まで謹慎 |
| 1886 年 | 西本願寺の夜間警備員となる |
| 1900 年 3 月 20 日 | 西本願寺で倒れ死去。72 歳 |
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