永倉新八とは?新選組最強と呼ばれた男の愛刀・性格・晩年

新選組で誰が一番強かったか。この問いで沖田総司と並んで挙がるのが、永倉新八です。そして永倉は、生き延びました。
目次
永倉新八とは何をした人か
永倉は新選組の二番隊組長であり、撃剣師範でもありました。隊士に剣を教える立場です。
天保 10 年(1839 年)、松前藩の江戸詰めの藩士の家に生まれます。れっきとした武士の出で、農民の出である近藤勇や土方歳三とは出自が違いました。
剣は神道無念流。江戸でも屈指の道場で修行し、目録を得ています。そのうえで近藤勇の試衛館に出入りし、行動をともにするようになりました。
流派も身分も違う者が、近藤のもとに集まった。 永倉はその代表格です。
なぜ「最強」と呼ばれるのか
永倉が最強候補に挙がる理由は、実戦の記録が残っていることにあります。
池田屋事件で最初に斬り込んだのは、近藤・沖田・永倉・藤堂平助の四人でした。狭い屋内での乱戦で、永倉は指を負傷しながら戦い抜いています。
沖田は途中で倒れ、藤堂も負傷しました。最後まで立って戦い続けた一人が永倉です。
さらに彼は戊辰戦争にも加わって北関東から東北を転戦し、米沢を経て江戸へ帰り着いています(箱館までは行っていません)。同時代の記録に実戦の姿が残り、しかも生還している。 「最強」という評価は、この二つに支えられています。
近藤勇を諫めた男
永倉について特筆すべきは、局長に逆らったことがあるという点です。
新選組の隊士たちが、近藤の振る舞いが専横に過ぎるとして、会津藩に建白書を出したことがありました。永倉はその中心にいた一人です。
隊内の規律は厳しく、違反者が切腹させられたり粛清されたりした例が実際にあります。そのなかで局長を名指しで諫める文書を外部に出すのは、命がけの行為です。にもかかわらず永倉は処分されず、以後も隊にとどまりました。
彼が同志であって家来ではないという意識を持ち続けていたことが、この一件からうかがえます。
永倉新八の愛刀と性格
永倉の刀としては、手柄山氏繁の名が伝わります。池田屋では刃こぼれし、刀身が傷んだと記されています。
新選組隊士の愛刀は後年の読み物で固まったものが多いなかで、永倉の場合は本人が晩年に語り残している分、他の隊士より根拠が確かです。
性格については、豪放で、率直という評が伝わります。近藤に建白書を突きつけた一件も、この気質と無縁ではないでしょう。
別れ、そして北海道へ
慶応 4 年(1868 年)、鳥羽伏見に敗れた新選組は江戸へ退きます。
このとき永倉は近藤と袂を分かちました。近藤の下で戦い続けるのではなく、別の隊を組んで戦う道を選んだのです。近藤は板橋で斬られ、土方は箱館で戦死しました。
永倉は生き延びます。明治になると松前藩の医師の娘と結婚し、杉村義衛と名を改めました。
そして剣を捨てたわけではありません。北海道へ渡り、樺戸集治監で剣術師範を務め、のちに東京で道場も開いています。新選組の後の人生のほうが、はるかに長かったのです。
語り残した男
永倉の最大の功績は、実は剣ではないかもしれません。新選組の記録を残したことです。
晩年の永倉は、自らの体験を語り、それが書き留められました。今日私たちが知る新選組の細部の多くは、この生き残りの証言に負っています。
勝った側が歴史を書く時代に、敗れた側の当事者が自分の言葉で記録を残した。その意味は小さくありません。
大正 4 年(1915 年)、永倉は死去します。満 75 歳(数えで 77)でした。近藤の死から 47 年が経っていました。
永倉新八の年表
あわせて読みたい

橋本左内とは?安政の大獄に散った福井の俊英の生涯と名言
数え15歳で『啓発録』を著し、福井藩の藩政改革と将軍継嗣問題に奔走した橋本左内。満25歳で安政の大獄に処刑された俊英の生涯と、その言葉を史実に沿って解説します。

伊東甲子太郎とは?新選組を割って油小路に散った理論家を解説
学識と剣を備えて新選組の参謀となりながら、勤王の志ゆえに袂を分かった伊東甲子太郎。御陵衛士を組織し、油小路で謀殺されるまでの生涯を史実に沿って解説します。

河井継之助とは?長岡藩を率いてガトリング砲で戦った男を解説
小藩・長岡を率い、武装中立を掲げて新政府と交渉し、決裂すると最新兵器で戦った家老・河井継之助。北越戦争での奮戦と、傷を負って山を越え41歳で果てた最期を史実に沿って解説します。
