坂本龍馬とは?何をした人か生涯と暗殺の謎をわかりやすく解説

幕末の数多い志士のなかでも、坂本龍馬ほど後世に語り継がれる人物は多くありません。一介の郷士の身でありながら、犬猿の仲だった薩摩と長州を結びつけ、討幕への大きな流れをつくり出しました。その生涯はわずか31年でした。
目次
坂本龍馬の生い立ちと土佐の郷士という身分
坂本龍馬は天保6年(西暦では1836年初頭)、土佐藩の城下町・高知に生まれました。坂本家は商家から郷士の株を得た家柄で、武士のなかでも下級に位置づけられる「郷士」です。上士と郷士のあいだには厳しい身分の壁があり、龍馬は若いころからその理不尽さを肌で感じて育ったといわれます。
少年期は剣術に打ち込み、江戸に出て北辰一刀流の千葉道場で学びました。剣の腕を磨きながら、龍馬は黒船来航以後に揺れ動く時代の空気を吸い込んでいきます。
坂本龍馬の写真

坂本龍馬はなぜ脱藩したのか
1862年、龍馬は土佐藩を脱藩します。藩という枠を飛び出した龍馬は、勝海舟と出会って大きく人生を変えました。幕臣でありながら海軍の必要性を説く勝のもとで、龍馬は航海術と世界の情勢を学びます。
やがて龍馬は長崎を拠点に、貿易と海運を担う結社をつくり上げました。これがのちの海援隊です。武力ではなく交易と船によって国を動かそうとした発想は、当時としてはきわめて先進的でした。
坂本龍馬の功績である薩長同盟の仲立ち
龍馬の名を歴史に刻んだ最大の功績が、薩長同盟の成立です。
このころ、薩摩藩と長州藩は政治的に激しく対立していました。しかし幕府の力を抑えるには、両藩が手を結ぶほかありません。龍馬や中岡慎太郎らはそう考え、両者のあいだを粘り強く取り持ちます。1866年、京都でついに薩長は密約を結びました。この同盟が、後の討幕への決定的な布石となります。
坂本龍馬と大政奉還・船中八策
龍馬はさらに、新しい国家の構想を描いていました。船の上でまとめたとされる「船中八策」には、政権を朝廷に返上し、議会を設けるといった構想が盛り込まれていたと伝えられます。
1867年、15代将軍・徳川慶喜は政権を朝廷に返上しました。世にいう大政奉還です。武力衝突を経ずに政権を移そうとしたこの動きにも、龍馬の働きかけが影を落としていました。
坂本龍馬と寺田屋事件
近江屋の2年前、龍馬はもう一度、命を落としかけています。
1866年3月、薩長同盟の密約が成ったすぐあと、龍馬は伏見の船宿・寺田屋に泊まっていました。そこへ伏見奉行所の捕方が踏み込みます。このとき、階下で湯を使っていたお龍が異変に気づき、そのまま二階へ駆け上がって龍馬に知らせたと伝わります。
龍馬は高杉晋作から贈られたという短銃で応戦し、同宿していた長府藩士・三吉慎蔵が槍で防ぎました。龍馬は手指に深い傷を負いながらも脱出し、薩摩藩邸に匿われます。
傷の療養をかねて、龍馬はお龍とともに薩摩の霧島へ湯治に出かけました。この旅は、のちに「日本初の新婚旅行」としてしばしば語られるものです。
なお、同じ寺田屋では1862年にも薩摩藩の内部粛清(寺田屋騒動)が起きており、両者はまったく別の事件です。混同されやすいので注意してください。
坂本龍馬はいつどこで死んだのか
しかし龍馬は、新しい時代の幕開けを見届けることはできませんでした。
大政奉還からほどなくの1867年12月10日(慶応3年11月15日)、京都の醤油商・近江屋に潜んでいた龍馬は、中岡慎太郎とともに何者かに襲撃され、命を落とします。満31歳、数えで33でした。
短くも濃密なその生涯は、後世に「龍馬伝説」として大きく膨らんでいきました。歴史上の龍馬と、語り継がれるなかで理想化された龍馬像とは、慎重に区別して読み解く必要があります。それでもなお、彼が幕末の転換点で果たした役割の大きさは揺るぎません。
坂本龍馬は誰に殺されたのか
龍馬を斬った下手人については、いまも完全には決着していません。主な説を整理しておきます。
京都見廻組による犯行。 現在もっとも有力とされる説です。維新後、元見廻組の今井信郎が近江屋襲撃への関与を供述しており、同じく見廻組の佐々木只三郎が指揮したと考えられています。当時の龍馬は幕府から見れば危険人物であり、京都の治安組織が動く理由は十分にありました。
新選組による犯行。 事件直後にもっとも疑われたのはこちらでした。近江屋に残された遺留品や、龍馬が幕府側に追われていた経緯から新選組の名が挙がり、隊士の一部が捕縛・尋問されています。ただし決定的な証拠は出ていません。
薩摩藩黒幕説。 大政奉還によって武力倒幕の道が狭まることを嫌った勢力が龍馬を排除した、とする見方です。後世に唱えられた説で、史料的な裏づけは弱いとされます。
いずれの説も、決め手を欠いたまま今日に至っています。「なぜ殺されたのか」という問いに対しては、龍馬が幕府側から見て明確な脅威であったという点までは動きませんが、それ以上は推測の域を出ません。
同じ席にいた中岡慎太郎はこのとき即死せず、2日後に息を引き取りました。事件の様子は、その中岡の証言を通じて断片的に伝わっています。
坂本龍馬の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1836年(天保6年11月) | 土佐藩の郷士の家に生まれる |
| 1853年 | 江戸へ出て北辰一刀流を学ぶ。この年、黒船が来航 |
| 1862年 | 土佐藩を脱藩。のちに勝海舟の門下に入る |
| 1865年 | 長崎で亀山社中(のちの海援隊)を結成 |
| 1866年3月 | 薩長同盟が成立。直後に寺田屋で襲撃される |
| 1867年 | 海援隊を組織。大政奉還が実現する |
| 1867年12月10日 | 近江屋で襲撃され死去。満31歳 |
坂本龍馬はどんな性格だったのか
龍馬の人柄をうかがわせる一次史料として貴重なのが、本人が残した手紙です。とくに姉・乙女に宛てた書簡が多く残り、そこには冗談やくだけた言い回し、自分の失敗を笑い飛ばすような筆致が並びます。堅苦しさのない、率直な人物像が浮かび上がります。
身分の壁が厳しい土佐にあって上士にも臆さず、脱藩という当時としては重い罪を選び、幕臣である勝海舟に弟子入りし、犬猿の仲だった薩摩と長州のあいだを行き来する。立場や肩書きにこだわらない身の軽さが、龍馬の行動を一貫して特徴づけています。
一方で、後世に描かれる「豪放磊落な英雄」像には、小説やドラマを通じて大きく脚色された部分が含まれます。史実の龍馬を知るうえでは、まず手紙にあたるのが確実です。
坂本龍馬の墓とゆかりの地
龍馬の墓は、京都・東山の京都霊山護国神社にあります。ともに斬られた中岡慎太郎の墓も隣り合って並んでおり、幕末の志士たちが多く葬られた一帯です。
そのほか、主なゆかりの地は次のとおりです。
- 高知市上町……龍馬の生誕地で、記念碑が建っています
- 京都・近江屋跡……河原町通に石碑があります
- 伏見・寺田屋……襲撃の舞台となった船宿です
- 長崎……亀山社中の跡地が残っています
- 桂浜(高知市)……太平洋を望む龍馬像が立っています
よくある質問
坂本龍馬は何をした人ですか。
土佐藩を脱藩した志士で、薩長同盟の仲立ちと、大政奉還につながる構想の提示で知られます。日本初の商社ともいわれる亀山社中(のちの海援隊)も率いました。
坂本龍馬は誰に殺されたのですか。
慶応 3 年 11 月 15 日(1867 年 12 月 10 日)、京都の近江屋で襲撃されました。実行者は京都見廻組とする説が有力で、佐々木只三郎の名が挙げられます。新選組の関与を疑う説もありますが確定していません。
坂本龍馬は何歳で死んだのですか。
満 31 歳です(数えでは 33)。
坂本龍馬の墓はどこにありますか。
京都の霊山護国神社です。中岡慎太郎の墓も隣にあります。
坂本龍馬はなぜ人気があるのですか。
藩や身分の枠の外側から動き、敵対する薩摩と長州を結び付けた経歴が、組織に縛られない人物像として語られてきたためです。
幕末の志士たちが駆けた時代は、幕末の偉人の記事で人物ごとにたどっています。龍馬の有名な肖像が生まれた背景は、幕末の写真もあわせてどうぞ。
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