幕末の偉人

板倉勝静とは?幕府最後の老中首座と山田方谷の藩政改革

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板倉勝静とは?幕府最後の老中首座と山田方谷の藩政改革
板倉勝静 肖像 / 出典: Wikimedia Commons Public domain

徳川幕府が政権を返上したとき、老中首座の席にいた男がいます。板倉勝静。寛政の改革をやった松平定信の孫でもあります。

目次

板倉勝静とは何をした人か

板倉勝静は、備中松山藩主であり、幕末の幕府で老中を務めた大名です。

その仕事は大きく二つに分かれます。

第一に、藩主として。 陽明学者の山田方谷を抜擢し、破綻していた備中松山藩(現在の岡山県高梁市)の財政を立て直しました。

第二に、幕府の老中として。 文久 2 年(1862 年)に老中となり、十四代徳川家茂・十五代徳川慶喜に仕え、慶応 3 年(1867 年)の大政奉還に立ち会いました。

そして戊辰戦争では、慶喜が恭順した後も北へ向かい、箱館まで戦い続けています。

文政 6 年 1 月 4 日(1823 年 2 月 14 日)に生まれ、明治 22 年(1889 年)4 月 6 日に没しました。

板倉勝静の出自と松平定信の孫という血筋

勝静は、松平定永の八男として生まれました。定永の父は松平定信——寛政の改革を主導した、あの定信です。

つまり勝静は、幕政改革をやった老中の孫が、また老中になったという家柄にあたります。

天保 13 年(1842 年)、備中松山藩主・板倉勝職の婿養子に入り、嘉永 2 年(1849 年)に家督を継ぎました。板倉家は徳川譜代の名門で、藩主が幕閣に登る道が最初から開いている家です。

ただし、勝静が継いだ備中松山藩は財政が完全に行き詰まっていました。

板倉勝静と山田方谷の藩政改革

勝静がやったことで、いまも最も高く評価されているのがこれです。

彼は山田方谷という学者を登用しました。方谷は農商の出身で、身分の高い家柄ではありません。それを藩校・有終館の学頭に据え、さらに藩財政の実務を任せました。

方谷が進めたのは、倹約と、産物の開発と、藩札の整理です。備中松山の鉄や煙草を江戸で売り、藩の借金を減らし、蓄えを作りました。藩の財政再建としては、幕末で最も成功した例の一つに数えられます。

この「藩主が身分を越えて人を抜擢し、任せきる」という形は、鍋島直正島津斉彬にも共通します。幕末に伸びた藩は、たいてい人事から変えています。

板倉勝静は幕府最後の老中首座

安政 4 年(1857 年)に奏者番兼寺社奉行となりますが、安政 6 年(1859 年)に罷免されました。井伊直弼が主導した安政の大獄の処分をめぐって、直弼と衝突したためと伝わります。

文久元年(1861 年)に再び役に就き、文久 2 年(1862 年)には老中へ昇りました。以後、勝静は幕末の最も難しい時期の幕政に立ち会い続けます。

そして慶応 3 年 10 月 14 日(1867 年 11 月 9 日)、大政奉還。勝静はこのとき老中首座の位置にいました。幕府という機構の、最後の筆頭閣僚だったことになります。

板倉勝静はなぜ箱館まで戦ったのか

慶応 4 年(1868 年)の鳥羽・伏見の戦いに敗れると、慶喜は大坂を離れて江戸へ戻り、やがて恭順します。勝静は、そこで降りませんでした。

彼は江戸から奥州へ、さらに蝦夷地へ渡り、榎本武揚らの箱館五稜郭まで転戦しました。

一方、国元の備中松山藩は「朝敵」とされ、藩主不在のまま新政府軍を迎えることになります。藩を無血で明け渡し、取り潰しを免れさせたのは山田方谷でした。主君が戦い続ける間、家臣が藩を守った形です。

主君としての義理と、藩の存続。板倉勝静の生涯では、この二つが最後に分かれました。

板倉勝静の最期と墓

明治 2 年 5 月 25 日(1869 年 7 月 4 日)、勝静は東京へ戻って自訴します。翌日、安中藩へ永預(身柄を預ける処分)となりました。

明治 5 年 1 月 6 日(1872 年 2 月 14 日)、特旨により赦免。

明治 9 年(1876 年)には上野東照宮の祠官となりました。徳川家康を祀る社の神職です。幕府の最後の老中が、幕府の始祖を祀る側に回ったことになります。

明治 22 年(1889 年)4 月 6 日に没しました。満 66 歳です。墓所は東京都文京区本駒込の吉祥寺にあります。

板倉勝静の年表

出来事
1823 年 2 月 14 日松平定永の八男として生まれる(文政 6 年 1 月 4 日)
1842 年備中松山藩主・板倉勝職の婿養子となる
1849 年備中松山藩主を継ぐ
1850 年代山田方谷を登用し、藩政改革を進める
1857 年奏者番兼寺社奉行
1859 年罷免される(安政の大獄の時期)
1862 年老中となる
1867 年 11 月 9 日大政奉還(慶応 3 年 10 月 14 日)に老中首座として立ち会う
1868 年鳥羽・伏見の敗戦後、奥州から蝦夷地へ転戦
1869 年 7 月 4 日東京へ戻り自訴。安中藩へ永預
1872 年 2 月 14 日赦免
1876 年上野東照宮の祠官となる
1889 年 4 月 6 日没。満 66 歳

同じ時期に幕府を支えた人物としては小栗忠順勝海舟、蝦夷地で戦った側としては榎本武揚大鳥圭介がいます。

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