幕末の偉人

島津斉彬とは?西郷を育て日本の近代化を先取りした薩摩の名君

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島津斉彬とは?西郷を育て日本の近代化を先取りした薩摩の名君
島津斉彬 肖像写真(市来四郎ら撮影, 1857) / 出典: Wikimedia Commons Public domain

黒船が来る前から、自分の藩で洋式の工場を動かしていた大名がいます。島津斉彬。薩摩藩主であり、幕末の名君と称される人物です。

目次

島津斉彬とは何をした人か

斉彬の仕事は、二つに整理できます。

第一に、藩を近代化したこと。反射炉、溶鉱炉、造船、ガラス、紡績、そして写真術。斉彬は薩摩に、西洋の科学技術を集めた一大工場群を築きました。集成館事業と呼ばれます。

第二に、人を育てたこと。斉彬が直接抜擢した西郷隆盛や、斉彬の時代に頭角をあらわした大久保利通が、のちに明治維新を主導します。斉彬という土壌がなければ、維新の主役たちは世に出ませんでした。

文化 6 年(1809 年)、薩摩藩主・島津家に生まれます。

お由羅騒動

斉彬は、若い頃から英明で知られていました。しかし、藩主になる道は平坦ではありませんでした。

父・斉興が家督をなかなか譲らず、しかも斉興の側室・お由羅が生んだ弟を跡継ぎに推す一派がいたのです。斉彬を推す一派と、弟を推す一派が対立し、藩を二分する騒動になりました。お由羅騒動と呼ばれます。

この対立で、斉彬を支持した藩士の多くが処罰されました。斉彬が藩主の座に就いたのは、嘉永 4 年(1851 年)、すでに 40 歳を過ぎてからのことです。

遅い就任でしたが、斉彬はそこから猛烈な勢いで藩の改革に着手します。

集成館事業

斉彬が薩摩で進めたのが、集成館事業です。

彼は、鹿児島の城下に洋式の工場群を築きました。鉄を溶かす反射炉、大砲の鋳造、洋式の船の建造、ガラスや陶磁器の製造、綿の紡績。西洋の産業技術を、藩の力で一挙に導入しようとしたのです。

驚くべきことに、これは黒船来航とほぼ同時期、あるいはそれ以前から進められていました。多くの藩が外圧を受けて慌てて動き出したのに対し、斉彬は先を読んで動いていたのです。

斉彬自身、写真に強い関心を持ちました。日本人を撮影した最初期の写真の一つに、斉彬を撮ったものがあるとされます。大名みずからが西洋の新技術に手を触れた、その姿勢を象徴する逸話です。

西郷と大久保を育てる

斉彬の遺したもののうち、最も大きかったのは人材かもしれません。

斉彬は、身分の低い藩士のなかから有能な者を見出し、抜擢しました。その代表が西郷隆盛です。西郷は斉彬に見出され、その手足として働き、深く傾倒しました。西郷が終生「斉彬公」を敬慕したことは、よく知られています。

大久保利通も、斉彬の治世にその存在を認められた一人です。ただし大久保が政治の表舞台で台頭するのは、主に斉彬の没後、弟・久光の時代に入ってからでした。加治屋町という一つの町内から、西郷・大久保をはじめ維新の人材が続々と出たことは、薩摩の特異さとして語られます。その人材が育つ場を作ったのが、斉彬でした。

急死

斉彬の治世は、長くは続きませんでした。

安政 5 年(1858 年)、斉彬は鹿児島で急死します。満 49 歳(数えで 50)でした。真夏の軍事訓練の最中に発病し、あっという間に亡くなったと伝えられます。死因は病とされ、コレラを疑う見方もあります。あまりに突然だったため、のちに毒殺説も唱えられましたが、これを裏づける確かな証拠はありません。

斉彬の急死は、薩摩にとって大きな痛手でした。彼が生きていれば維新はもっと早く、もっと違った形になっていたかもしれない、という見方すらあります。

主君を失った西郷隆盛は、斉彬の後を追って死のうとしたとも伝えられます。それほど、斉彬という主君は西郷にとって大きな存在でした。

島津斉彬の遺産

斉彬の築いた集成館事業は、その死後にいったん縮小しますが、完全には絶えませんでした。のちに再興され、薩摩の力の源泉となります。

集成館の跡地は、現在も鹿児島に残ります。関連する施設や庭園は、日本の近代化の出発点を示すものとして、世界遺産の構成資産にも含まれています。

近代化を先取りし、維新の人材を育て、志半ばで急死した名君。斉彬は、幕末を語るうえで欠かせない一人です。

島津斉彬の年表

出来事
1809 年薩摩藩主・島津家に生まれる
1851 年お由羅騒動を経て薩摩藩主となる
1850 年代集成館事業を進め、藩を近代化
この頃西郷隆盛大久保利通を育てる
1858 年鹿児島で急死。満 49 歳

育てた人々は西郷隆盛大久保利通で扱っています。

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