幕末の偉人

徳川家茂の死因は?20歳で亡くなった14代将軍の生涯と和宮

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徳川家茂の死因は?20歳で亡くなった14代将軍の生涯と和宮
徳川家茂 肖像 川村清雄 筆(徳川記念財団所蔵) / 出典: Wikimedia Commons Public domain

14 代将軍・徳川家茂が世を去ったのは、満 20 歳のときでした。将軍でいた期間の大半を、彼はまだ十代で過ごしています。

目次

徳川家茂とは何をした人か

家茂は、幕府が最も追い詰められた時期の将軍でした。

在職中に起きたことを並べれば、それだけで幕末の主要事件がほぼ揃います。桜田門外の変和宮との婚儀、229 年ぶりの将軍上洛、池田屋事件、二度の長州征討。

しかし彼は、これらを主導する立場にはありませんでした。満 12 歳(数え 13 歳)で将軍となり、常に周囲の政治的圧力のただ中に置かれたからです。

弘化 3 年(1846 年)、紀州徳川家に生まれ、幼名を慶福といいました。

なぜ13歳の少年が将軍になったのか

13 代将軍・家定に子がなく、後継をめぐって幕府は二つに割れました。将軍継嗣問題です。

一方は、聡明で年長の一橋慶喜――のちの徳川慶喜を推す一派。もう一方は、血筋の近さを重んじて紀州の慶福を推す一派です。

決着をつけたのは大老・井伊直弼でした。井伊は慶福を選び、彼は家茂と名を改めて 14 代将軍となります。この決定に反対した者たちが、安政の大獄で処断されました。

つまり家茂の即位そのものが、幕末の政争の産物だったのです。少年将軍は、生まれながらに火種の上に座らされました。

和宮との結婚

文久 2 年(1862 年)、家茂は和宮と結婚します。孝明天皇の妹にあたる皇女です。

これは純然たる政略結婚でした。朝廷と幕府が手を結ぶ公武合体の象徴として企図されたものです。和宮にはすでに婚約者があり、降嫁は本人の望みではありませんでした。

ところが、この二人の夫婦仲は良かったと複数の記録が伝えています。

家茂が上洛する際、和宮が京の織物を土産に頼んだという話が知られています。家茂は約束を守り、品を用意させました。しかしそれが江戸に届いたのは、家茂の死後だったと伝えられます。

政治のために結ばれた二人が、最後には互いを思う夫婦になっていた。幕末の記録のなかで、これは数少ない静かな話です。

徳川家茂の死因

慶応 2 年(1866 年)7 月、第二次長州征討の指揮のため大坂城にあった家茂は、そこで病に倒れ亡くなりました。満 20 歳です。

死因は脚気、なかでも心臓に及んだ「脚気衝心」であったとするのが定説です。

脚気はビタミン B1 の欠乏によって起こる病で、江戸時代には白米を常食する上層の人々に多く、「江戸患い」とも呼ばれました。玄米を食べる庶民よりも、精白した米ばかりを食べる将軍家や大名のほうがかかりやすかったのです。

将軍という身分そのものが、彼の死因の背景にありました。

なお、後年に行われた徳川将軍家の遺骨調査では、家茂の歯のほとんどに虫歯があったことが確認されています。甘いものを好んだと伝えられており、その食生活を裏づける所見とされます。

勝海舟が嘆いたこと

家茂の人柄については、温厚で誠実という評が一致しています。

勝海舟は家茂に重く用いられた一人でした。身分の低い勝を抜擢し、意見をよく聞いた将軍として、勝は生涯この主君を悼んでいます。家茂の死に接して、徳川の命運は尽きたという趣旨のことを語ったと伝えられます。

実際、家茂の死の翌年には大政奉還が行われ、幕府は終わりを迎えました。264 年続いた幕府にとって、実質的に最後の「将軍らしい将軍」だったとも言えます。

徳川家茂の年表

出来事
1846 年紀州徳川家に生まれる。幼名は慶福
1858 年将軍継嗣問題を経て 14 代将軍となる。満 12 歳
1860 年桜田門外の変で井伊直弼が討たれる
1862 年和宮と結婚。公武合体の象徴となる
1863 年229 年ぶりに将軍として上洛
1864 年池田屋事件、禁門の変
1866 年第二次長州征討の途上、大坂城で死去。満 20 歳

その後の幕府については大政奉還徳川慶喜で扱っています。

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