徳川慶喜とは?最後の将軍の生涯と墓をわかりやすく解説

260年あまり続いた江戸幕府に、自らの手で幕を引いた人物がいます。15代将軍・徳川慶喜です。最後の将軍となった彼の決断は、日本の歴史を大きく転換させました。
目次
徳川慶喜はどのようにして将軍になったのか
徳川慶喜は天保8年(1837年)、水戸徳川家に生まれ、のちに一橋家を継ぎました。聡明さで知られ、早くから幕政の中心人物として頭角をあらわします。
黒船来航以後、揺れ動く政局のなかで、慶喜は難しい舵取りを担うことになりました。そして1866年、ついに将軍の座に就きます。
徳川慶喜の写真

徳川慶喜が大政奉還を決断した理由
将軍となった慶喜が下した最大の決断が、大政奉還です。1867年、彼は政権を朝廷に返上することを申し出ました。
武力衝突を経ずに政権を移し、徳川家も新しい体制のなかで一定の役割を担う。慶喜はそうした道を構想していたとされます。坂本龍馬らの働きかけもあったこの動きは、無血での政権移行をめざす試みでした。
徳川慶喜はなぜ鳥羽伏見で江戸へ退いたのか
しかし、事態は慶喜の思惑どおりには進みませんでした。新政府側との緊張が高まり、ついに鳥羽伏見の戦いが勃発します。
旧幕府軍が劣勢に陥るなか、慶喜は江戸へ退き、新政府への恭順の姿勢を示しました。これがのちの江戸無血開城へとつながっていきます。
徳川慶喜の維新後の暮らし
維新後、慶喜は政治の表舞台から退き、静岡などで長い余生を送りました。趣味に親しみながら、激動の時代を生き延びた最後の将軍は、1913年に世を去ります。
幕府の最期を看取った人物として、慶喜の決断には今も様々な評価があります。しかし、武家の世を終わらせる役回りを引き受けた重みは、計り知れません。
徳川慶喜はいつ死んだのか
慶喜が亡くなったのは1913年(大正2年)11月22日、満76歳のときでした。死因は肺炎とされます。
驚かされるのは、その長さです。大政奉還が1867年、慶喜が30歳のときでした。将軍を退いてから、なお45年以上を生きたことになります。同時代を駆け抜けた志士たちの多くが20代から40代で世を去っていることを思えば、際立って長い生涯でした。
明治維新を成し遂げた西郷隆盛も大久保利通も木戸孝允も、1877年から78年にかけて世を去っています。慶喜はそのすべてを見送り、日清戦争も日露戦争も、明治という時代の終わりまでを見届けました。
徳川慶喜の墓はどこにあるのか
慶喜の墓は、東京都台東区の谷中霊園にあります。
注目すべきは、この墓が仏式ではなく神式で、円墳の形をとっていることです。歴代の徳川将軍は増上寺または寛永寺に葬られてきましたが、慶喜は自らの意思でそれらに加わらず、神式での埋葬を選びました。将軍としてではなく、一個人として葬られることを望んだためと解されています。
隣には正室・美賀子の墓が並びます。谷中霊園は上野の寛永寺にほど近く、幕末に彰義隊が戦った一帯でもあります。
徳川慶喜の家族と側室
慶喜には正室のほかに側室がおり、生涯に20人を超える子をもうけたと伝えられます。ただし幼くして亡くなった子も多くいました。
- 正室……一条美賀子です。公家の一条家から迎えました
- 側室……新村信、中根幸の2人が知られています。維新後の静岡での生活をともにしました
- 子……男女あわせて20人以上です。多くは維新後の生まれで、公爵家を継いだ徳川家達とは別に、慶喜は明治になってから徳川慶喜家という新たな家を興しています
なお、慶喜は水戸徳川家の出身で、実父は徳川斉昭です。尊王攘夷論の本拠である水戸に生まれながら、最後は自ら政権を朝廷へ返上する立場に回ったことになります。
徳川慶喜はどんな性格だったのか
同時代の評価は、驚くほど割れています。
聡明さについては、敵味方を問わず一致しています。若いころから「英邁」と評され、将軍継嗣問題では一橋派に推されるほどの期待を集めました。しかし同時に、決断を翻すことの多さもしばしば指摘されます。鳥羽伏見の戦いで、なお戦力を残しながら大坂城を離れて江戸へ退いた行動は、その代表例としてよく論じられるところです。
慶喜自身は、明治になってからも当時のことをほとんど語りませんでした。政治的な発言を避け、写真・狩猟・自転車・囲碁といった趣味に没頭して過ごしています。とくに写真は熱心で、自ら撮影した作品が残っています。
「臆病だった」と見るか、「無用の内戦を避けた」と見るか。 慶喜の評価が定まらないのは、彼が引き受けた役回りそのものが、勝者にも敗者にもなりきれないものだったからでしょう。
徳川慶喜の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1837年 | 水戸徳川家に生まれる(父は徳川斉昭) |
| 1847年 | 一橋家を相続する |
| 1858年 | 将軍継嗣問題で敗れ、安政の大獄で謹慎処分を受ける |
| 1862年 | 将軍後見職に就任し、幕政の中心へ復帰 |
| 1866年 | 15代将軍に就任 |
| 1867年10月 | 大政奉還を上奏 |
| 1868年1月 | 鳥羽伏見の戦いに敗れ、江戸へ退いて恭順 |
| 1897年 | 東京へ移る。のちに公爵を授けられ、貴族院議員となる |
| 1913年11月22日 | 死去。満76歳 |
よくある質問
徳川慶喜は何をした人ですか。
江戸幕府の第十五代将軍で、最後の将軍です。慶応 3 年(1867 年)に大政奉還を行い、政権を朝廷へ返上しました。
徳川慶喜はなぜ政権を返上したのですか。
武力討幕の動きを封じ、徳川家を含む新しい政治体制のなかで主導権を保つ狙いがあったとされます。しかし王政復古の大号令によってその計算は崩れました。
徳川慶喜はいつ死んだのですか。
大正 2 年(1913 年)11 月 22 日、満 76 歳で没しました。歴代将軍で最も長命です。
徳川慶喜の墓はどこにありますか。
東京都台東区の谷中霊園です。歴代将軍と異なり、神式の円墳で葬られています。
幕末を動かした人々の群像は、幕末の偉人の各記事でどうぞ。
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