幕末の文化

大政奉還とは?徳川慶喜が行った理由をわかりやすく解説

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大政奉還とは?徳川慶喜が行った理由をわかりやすく解説
「大政奉還」邨田丹陵 画(聖徳記念絵画館蔵) / 出典: Wikimedia Commons PD-old

680年あまり続いた武家政権に、将軍自身が終止符を打ちました。それが大政奉還です。刀を交えることなく政権が動いたこの出来事は、世界の歴史のなかでも珍しい政権移行でした。

目次

大政奉還とは

大政奉還とは、1867年11月9日(慶応3年10月14日)、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が、政権を朝廷に返上することを申し出た出来事です。翌日、朝廷はこれを受け入れました。

「大政」は国を治める政権、「奉還」はお返しすること。もともと政権は天皇のものであり、将軍はそれを預かっていたにすぎないという建前に立ち返る形式がとられました。

項目内容
年月日1867年11月9日上表、翌10日に勅許
場所京都・二条城(諸藩の重臣を集めて意思を伝えた)
行った人物15代将軍 徳川慶喜
内容政権を朝廷へ返上する
意味鎌倉幕府以来約680年続いた武家政権の終わり

大政奉還はなぜ行われたのか

将軍が自ら政権を手放すという不可解な決断。 ここが大政奉還を理解する核心です。理由は、慶喜にとってこれが最善の生き残り策だったからです。

当時、薩摩と長州は武力によって幕府を倒す方針を固めつつありました。薩長同盟が成立し、幕府は第二次長州征討にも失敗して、軍事的な優位を失っていました。このまま討幕の口実を与えれば、徳川家は「朝敵」として滅ぼされかねません。

そこで慶喜が選んだのが、先に政権を返してしまうことでした。

政権が朝廷に戻れば、「幕府を倒す」という討幕派の大義名分は消えます。しかも当時の朝廷には、実際に国を運営する組織も人材もありませんでした。政権を返上しても、現実の統治は徳川家を中心とする諸大名の合議に委ねられるほかない。慶喜はそう読んでいたとされます。

つまり大政奉還は、降伏でも敗北でもありません。形式的に権力を手放すことで、実質的な地位を保とうとする高度な政治判断でした。全国最大の領地も家臣団も、徳川家の手に残ったままです。

坂本龍馬と船中八策

大政奉還を語るとき、必ず名が挙がるのが坂本龍馬です。

慶喜に大政奉還を建白したのは土佐藩でした。後藤象二郎が藩論をまとめ、前藩主・山内容堂の名で幕府へ働きかけています。この土佐藩の構想に影響を与えたとされるのが、龍馬が船中でまとめたと伝わる新国家構想、いわゆる「船中八策」です。

政権を朝廷に返上すること、上下の議会を設けること、有能な人材を登用すること。そこには、後の明治国家につながる要素が並んでいました。

ただし注意が必要です。「船中八策」という文書そのものの実在には、近年強い疑問が呈されています。 龍馬が新国家構想を持っていたことは確かですが、船の上で8か条にまとめたという有名な逸話は、後世に整えられた可能性が高いとみられます。

いずれにせよ、土佐藩が武力討幕を避ける道を模索し、慶喜がそれに乗ったことが大政奉還の直接の経緯です。武力によらず政権を移そうとした点で、龍馬の構想と土佐藩の建白は同じ方向を向いていました。

大政奉還と王政復古の違い

もっとも混同されやすい二つを整理します。大政奉還のあとに王政復古が起きており、両者は別物です。

項目大政奉還王政復古の大号令
時期1867年11月9日1868年1月3日(約2か月後)
主体徳川慶喜(幕府側)薩摩・岩倉具視ら(討幕派)
内容政権を朝廷へ返上する天皇中心の新政府樹立を宣言し、幕府・摂政・関白を廃止
慶喜の扱い引き続き実力を保持辞官納地を要求され、地位を失う
性格幕府による自発的な政権返上討幕派によるクーデター

大政奉還で慶喜が守ろうとした「実質」を、王政復古が奪いにいきました。これが2か月間に起きたことです。

王政復古を主導したのは岩倉具視大久保利通らでした。新政府の職制から幕府を完全に排除したうえ、慶喜に対して官位の辞退と領地の返上を突きつけています。

これに旧幕府側が反発し、翌1868年1月の鳥羽伏見の戦い、すなわち戊辰戦争の始まりへとつながっていきます。慶喜の目論見は外れました。 無血での政権移行という構想は、2か月しか保ちませんでした。

大政奉還の年表

年月出来事
1866年3月薩長同盟が成立し、討幕勢力が結束
1867年1月徳川慶喜が15代将軍に就任
1867年10月下旬土佐藩が大政奉還を建白
1867年11月9日慶喜が大政奉還を上表
1867年11月10日朝廷が勅許
1867年12月10日坂本龍馬が近江屋で暗殺される
1868年1月3日王政復古の大号令。慶喜に辞官納地を要求
1868年1月末鳥羽伏見の戦い。戊辰戦争が始まる

大政奉還の歴史的な意味

武力革命を経ずに政権が移ったという点で、大政奉還は世界史的に見ても特異な出来事です。もし慶喜が徹底抗戦を選んでいれば、国内は長期の内乱に陥り、その隙に列強の介入を招いた可能性が高いでしょう。

同時に、大政奉還はそれだけでは何も終わらせなかったことも押さえておきたいところです。政権を返上しても徳川家の実力は残り、その実力をどう処理するかをめぐって結局は戦争になりました。大政奉還が「無血の政権交代」として完結しなかったのは、このためです。

それでも、新しい政治体制を誰が担うのかという議論を、話し合いの土俵に一度は乗せた意義は小さくありません。江戸城が無血開城された背景にも、この土俵の記憶がありました。

よくある質問

大政奉還はいつですか。 1867年11月9日(慶応3年10月14日)に徳川慶喜が上表し、翌日に朝廷が受け入れました。

大政奉還は誰が行いましたか。 江戸幕府15代将軍・徳川慶喜です。建白したのは土佐藩でした。

大政奉還はどこで行われましたか。 京都の二条城です。慶喜はここに諸藩の重臣を集め、決意を伝えました。

なぜ将軍は政権を返したのですか。 討幕の大義名分を消し、政権返上後も諸大名の合議のなかで徳川家が中心の地位を保つことを狙ったためです。

大政奉還で江戸幕府は終わりましたか。 政権の返上は行われましたが、幕府という組織が正式に廃止されたのは、約2か月後の王政復古の大号令によってです。

大政奉還を決断した人物は徳川慶喜、構想に関わった人物は坂本龍馬の記事で。その後の展開は戊辰戦争へ続きます。

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