幕末の偉人

井伊直弼とは?安政の大獄となぜ殺されたのかを解説

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井伊直弼とは?安政の大獄となぜ殺されたのかを解説

開国へと突き進む幕府の舵を、強い意志で握った人物がいます。大老・井伊直弼です。その断固たる手法は時代を前へ進めた一方で、激しい反発を招き、彼自身を悲劇的な最期へと導きました。

目次

井伊直弼の生い立ちと大老就任

井伊直弼は文化12年(1815年)、彦根藩主の家に生まれ、のちに藩主となりました。黒船来航で揺れる幕政のなか、彼は幕府の最高職である大老に就任します。

混乱した政局を収めるため、井伊は強力な指導力を発揮しようとしました。しかしその強硬な姿勢は、やがて深刻な対立を生んでいきます。

井伊直弼の肖像画

井伊直弼の肖像画
井伊直弼像(井伊直安 筆)出典: Wikimedia Commons PD-old-80

井伊直弼が無勅許で条約を結んだ理由

大老となった井伊が下した重大な決断が、日米修好通商条約への調印です。1858年、彼は朝廷の許可を得ないまま、この条約を結ぶことに踏み切りました。

開国そのものは避けがたい流れだったとはいえ、朝廷の許しを待たずに進めたことは、尊王を重んじる人々の激しい怒りを買います。

井伊直弼が主導した安政の大獄

反対の声が高まるなか、井伊は弾圧によってこれを抑え込もうとしました。世にいう安政の大獄です。

多くの志士や大名が処罰され、長州の吉田松陰もこの弾圧によって命を落としました。強権による締めつけは、しかし反発をいっそう激しくするばかりでした。

井伊直弼と桜田門外の変

1860年、井伊直弼は江戸城の桜田門外で、彼の政治に憤る者たちに襲撃され、命を落とします。桜田門外の変です。

幕府の最高権力者が白昼に討たれたこの事件は、幕府の権威が大きく揺らいでいることを天下に示しました。井伊の死は、幕末の動乱をいっそう加速させる転機となります。

井伊直弼は誰に、なぜ殺されたのか

襲撃が起きたのは1860年3月24日(安政7年3月3日)の朝です。季節外れの雪が降るなか、彦根藩邸から江戸城へ向かう行列が桜田門外にさしかかったところを襲われました。

実行したのは水戸藩を脱藩した浪士17名と、薩摩藩士の有村次左衛門ひとり、あわせて18名でした。雪のため供の者たちは刀に袋をかけ、合羽を着ていて即座に応戦できなかったと伝えられます。井伊は駕籠のなかで銃撃を受け、討ち取られました。満44歳(数えで46)でした。

では、なぜ殺されたのでしょうか。 直接の引き金は、水戸藩に下された「戊午の密勅」をめぐる対立です。孝明天皇が幕府を介さず水戸藩へ勅書を下したことに井伊は激怒し、その返納を強く迫ったうえ、関係者を安政の大獄で厳しく処断しました。水戸の浪士たちにとって、井伊は朝廷の意思を踏みにじった張本人だったのです。

背景には三つの恨みが重なっています。

  • 無勅許での条約調印……朝廷の許しを得ずに日米修好通商条約を結んだこと
  • 将軍継嗣問題……一橋慶喜ではなく紀州の徳川慶福を推し、一橋派を退けたこと
  • 安政の大獄……吉田松陰や橋本左内をはじめ、反対派を処刑・処罰したこと

なお、幕府は当面のあいだ井伊の死を公表せず、負傷して療養中という扱いにしました。大老が白昼に討たれたという事実そのものが、幕府の威信にとって致命的だったからです。

井伊直弼の墓

井伊直弼の墓は、東京都世田谷区の豪徳寺にあります。豪徳寺は彦根藩井伊家の江戸における菩提寺で、招き猫の発祥を伝える寺としても知られています。

彦根には井伊家歴代の菩提寺である清凉寺があり、また井伊直弼を祀る井伊神社も置かれています。彦根城の一帯は、直弼ゆかりの地として今日も整備されています。

井伊直弼の埋木舎の 15 年と一期一会

井伊直弼は彦根藩主・井伊直中の十四男として生まれました。藩主になる見込みなど、まったくない立場です。

家督を継げない部屋住みの身として、直弼は埋木舎(うもれぎのや)と自ら名づけた屋敷で15年を過ごしました。世に出る当てのないまま、彼はここで茶道・和歌・国学・居合を深く修めています。

とりわけ茶の湯への傾倒は本格的で、著した『茶湯一会集』の冒頭で説いたのが「一期一会」の思想でした。この茶会は生涯にただ一度のものと心得て、主客ともに誠を尽くせ。今日ひろく使われるこの言葉は、井伊直弼によって広く知られるようになったものです。

強権を振るった大老と、茶室で一期一会を説いた文化人。 この二つの顔が同一人物のものであることは、井伊直弼という人物を評価しがたいものにしています。兄たちの死により、思いがけず藩主となり、やがて幕府の最高職に就いたことが、彼の運命を大きく変えました。

井伊直弼の役職と経歴

出来事
1815年彦根藩主・井伊直中の十四男として生まれる
1831年ごろ部屋住みとして埋木舎での生活が始まる
1850年兄の死により彦根藩主となる
1853年黒船来航。開国やむなしの立場をとる
1858年4月大老に就任(幕府の最高職。常設ではない臨時の最高位)
1858年6月日米修好通商条約に無勅許で調印
1858〜59年安政の大獄。吉田松陰・橋本左内らを処断
1860年3月24日桜田門外の変で暗殺される。満44歳

よくある質問

井伊直弼は何をした人ですか。

彦根藩主から幕府の大老となり、天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、反対派を安政の大獄で弾圧しました。

井伊直弼はなぜ暗殺されたのですか。

無勅許調印と安政の大獄への反発です。万延元年 3 月 3 日(1860 年 3 月 24 日)、水戸脱藩浪士らに桜田門外で襲われました。

井伊直弼の墓はどこにありますか。

東京都世田谷区の豪徳寺です。

井伊直弼と「一期一会」の関係は何ですか。

藩主になる前の埋木舎での十五年に茶の湯を深く学び、その茶書のなかで一期一会の語を用いたことで知られます。

同じ時代を生きた人々は、幕末の偉人の各記事でたどれます。

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