幕末の偉人

榎本武揚は何をした人?なぜ許されたのかを史実で解説

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榎本武揚は何をした人?なぜ許されたのかを史実で解説
榎本武揚 肖像写真 / 出典: Wikimedia Commons Public domain

新政府に最後まで抵抗し、五稜郭に籠って戦った男が、その後明治政府の大臣を何度も務めました。榎本武揚。幕末でも屈指の、奇妙な経歴の持ち主です。

目次

榎本武揚は何をした人か

榎本の生涯は、大きく三つに分かれます。

第一に、幕府海軍の中心人物として。 オランダに留学して海軍と国際法を学び、当時最強クラスの軍艦・開陽丸を日本へ回航しました。

第二に、蝦夷地の抵抗勢力の総裁として。 戊辰戦争の終盤、艦隊を率いて江戸を脱し、箱館・五稜郭を拠点に新政府軍と戦いました。

第三に、明治政府の高官として。 敗れて投獄されたにもかかわらず放免され、大臣を歴任しました。

敵の総大将が、後に同じ政府の閣僚になる。 これがどう起きたのかが、榎本という人物の最大の論点です。

オランダ留学と開陽丸

天保 7 年(1836 年)、江戸の生まれ。幕臣の家に育ち、昌平坂学問所で学んだのち、長崎海軍伝習所で航海術に触れます。

文久 2 年(1862 年)、幕府はオランダへ留学生を派遣し、榎本もその一人となりました。彼が現地で身につけたのは、船の操り方だけではありません。国際法――当時の言葉で万国公法です。

5 年近い滞在の後、榎本は幕府が発注した軍艦開陽丸とともに帰国します。当時の日本において最強級の軍艦であり、榎本はその指揮官格でした。

なぜ蝦夷地へ渡ったのか

慶応 4 年(1868 年)、江戸城は戦わずして明け渡されました。勝海舟西郷隆盛の会談による無血開城です。

しかし榎本は納得しませんでした。彼が艦隊を率いて江戸湾を脱したのは、単なる意地からではありません。行き場を失った旧幕臣たちに、生きていく土地を用意するという目的があったのです。

蝦夷地を開拓し、そこに旧幕臣を入植させ、北方の守りとする。ロシアの南下が現実の脅威だった当時、これは荒唐無稽な構想ではありませんでした。

箱館を占領した榎本らは、士官の選挙によって総裁を選ぶという異例の手続きを取ります。榎本が最多票を得て総裁となりました。この体制は後に「蝦夷共和国」と呼ばれます。

もっとも、彼らは独立を宣言したわけではありません。朝廷に対して蝦夷地の開拓を願い出るという形を取っており、あくまで嘆願の姿勢を崩していないのが実際のところです。

五稜郭の敗北

明治 2 年(1869 年)、新政府軍が蝦夷地へ上陸します。頼みの開陽丸はすでに江差沖で座礁・沈没しており、海の優位は失われていました。

土方歳三が箱館で戦死したのもこの戦いです。五稜郭は包囲され、榎本は降伏しました。

なぜ榎本は許されたのか

降伏した榎本は東京へ送られ、投獄されます。旧幕府勢力の首魁であり、本来なら死罪が当然の立場でした。実際、政府内には厳罰を求める声が強くありました。

それでも彼は 2 年半ののちに放免されます。理由として、主に二つのことが語られます。

一つは、黒田清隆の助命運動です。 榎本を降伏させた新政府側の指揮官であった黒田は、その能力を惜しみ、助命のために奔走しました。頭を丸めてまで嘆願したと伝えられます。

もう一つは、榎本が降伏に際して差し出した書物です。 オランダから持ち帰った国際法の書『万国海律全書』を、彼は敵将のもとへ送りました。戦って焼けてしまえば失われる知識を、勝つ側に残そうとしたわけです。

この行為は、榎本という人物の性格をよく表しています。彼が守ろうとしたのは幕府という組織ではなく、日本という国が必要とする知識と人材だったと見ることができます。

北方開拓の知見を持ち、国際法を解し、海軍を知る人材は、当時の日本にほとんどいませんでした。黒田の助命運動と、榎本が持っていたこの種の知識とが、処分を軽くする方向に働いたと考えられています。 ただし政府全体がどう判断したのかを直接示す史料があるわけではありません。

明治政府での榎本

放免後の榎本は、まず開拓使に出仕します。蝦夷地に賭けた男が、今度は政府の側から北海道の開拓に関わりました。

その後、駐露公使として樺太・千島の国境交渉にあたり、条約をまとめます。さらに逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任しました。

一方で、旧幕臣のなかには彼の転身を潔しとしない声もありました。福沢諭吉が榎本の身の処し方を批判したことはよく知られています。旧主に殉じなかった男という評価は、生涯ついて回りました。

明治 41 年(1908 年)に死去、72 歳。晩年は病を得ての穏やかな最期でした。

榎本武揚の年表

出来事
1836 年江戸に幕臣の子として生まれる
1856 年頃長崎海軍伝習所で学ぶ
1862 年オランダへ留学。海軍と国際法を学ぶ
1867 年軍艦・開陽丸とともに帰国
1868 年江戸開城に反対し、艦隊を率いて蝦夷地へ
1868 年末箱館・五稜郭を占拠。選挙により総裁となる
1869 年降伏。東京で投獄される
1872 年放免され、開拓使に出仕
1875 年駐露公使として樺太千島交換条約を締結
1908 年死去。72 歳

蝦夷地での戦いは五稜郭、戦争全体の流れは戊辰戦争で扱っています。

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