幕末の偉人

小栗忠順とは?横須賀造船所を作り斬首された幕臣の生涯

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小栗忠順とは?横須賀造船所を作り斬首された幕臣の生涯
小栗忠順 肖像(1827〜1868) / 出典: Wikimedia Commons Public domain

幕府が滅びる直前に、百年もつ造船所を作った男がいます。小栗忠順、通称は上野介。そして彼は、新政府軍に斬首されました。

目次

小栗忠順とは何をした人か

小栗は、幕府の旗本であり、勘定奉行などを歴任した実務家です。

その仕事は三つに分けられます。

第一に、アメリカを見てきたこと。 万延元年(1860 年)の遣米使節に目付として加わり、条約の批准書交換のために渡米しました。

第二に、横須賀に造船所を作ったこと。 フランスの力を借りて横須賀製鉄所(のちの横須賀造船所)を起工しました。幕府が消えたあとも、これは日本の海軍工廠として使われ続けます。

第三に、最後まで戦うべきだと主張したこと。 鳥羽・伏見の敗戦後、江戸城の会議で抗戦を説き、退けられて全ての職を失いました。

文政 10 年(1827 年)に生まれ、慶応 4 年(1868 年)に没しています。

小栗忠順がアメリカで金の含有量を計った話

安政 6 年(1859 年)、小栗は目付となります。幕府の監察官です。

翌万延元年(1860 年)、遣米使節が派遣されました。日米修好通商条約の批准書を交換するための使節で、小栗は監察としてこれに加わります。

このとき小栗が何をしたかが、彼の性格をよく表しています。

当時、日本の小判とアメリカのドルの交換比率が問題になっていました。日本側は不利な比率を押しつけられていたのです。

小栗はアメリカの造幣局で、日本の小判とアメリカの金貨を実際に分析させました。含まれる金の量を測って比べたのです。そして、「比率が実態と合っていない」ことを数字で示して交渉しました。

議論ではなく計測で反論したわけです。この一件は使節団の逸話として広く知られています。

ただし、交換比率そのものの改定には至っていません。論理の正しさは認められても、条約は動きませんでした。

小栗忠順と横須賀製鉄所

帰国後、小栗は要職を次々に務めます。外国奉行、勘定奉行、軍艦奉行、江戸町奉行。幕府の財政と軍事の実務を一手に握った時期です。

そして彼が最も力を注いだのが、横須賀製鉄所の建設でした。

構想はこうです。軍艦を買うのではなく、作れるようにする。そのためには製鉄所と造船所、そして技術者を育てる学校が必要になる。

小栗はフランス公使ロッシュと組み、フランスから技術と人材を導入しました。慶応元年 9 月 27 日——グレゴリオ暦の 1865 年 11 月 15 日に鍬入れ式が行われています。

このとき彼が言ったとされる言葉があります。「幕府が倒れても、この施設は日本に残る」という趣旨のものです。言葉の正確な形は伝承によって異なりますが、そのとおりになりました。

横須賀は明治政府に引き継がれ、日本海軍の工廠になります。幕府の遺産が、幕府を倒した政府の海軍を支えたことになります。

小栗忠順はなぜ抗戦を主張したのか

慶応 4 年(1868 年)正月、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れ、徳川慶喜は大坂から江戸へ戻りました。

江戸城の会議で、小栗は抗戦論を唱えます。

彼の議論は感情論ではありませんでした。新政府軍は補給線が長く、海軍を持たない。幕府には艦隊と、横須賀という後方がある。箱根で足止めして、海から背後を突けば勝てる——そういう軍事的な計算です。

しかし慶喜は恭順を選びました。勝海舟高橋泥舟ら、戦うべきでないと考える一派が慶喜を支えていました。

小栗はすべての役職を罷免されます。

小栗忠順の最期と権田村での処刑

職を失った小栗は、知行地である上野国群馬郡権田村——現在の群馬県高崎市倉渕町へ移りました。

政治から退いたつもりでした。

しかし新政府軍は彼を追いました。幕府の中枢にいた実務家であり、抗戦論者だったという理由です。

慶応 4 年閏 4 月(西暦では 1868 年 5 月)、小栗は捕らえられ、烏川の水沼河原で斬首されました。取り調べらしい取り調べはなかったとされます。

満 40 歳でした。

小栗忠順の評価

小栗の名は、長いあいだ「幕府側の敗者」として扱われてきました。

しかし彼が残したものは具体的です。横須賀の造船所フランス式の兵制改革株式会社に近い商社の構想郵便や鉄道の計画明治政府がやったことの多くは、小栗が着手していたことの続きでした。

後年、日本海海戦の勝利に際して、旧海軍の関係者が小栗の遺族に謝意を伝えたという話が伝わります。横須賀があったから戦えた、という趣旨です。この話は伝承として語られるもので、細部には諸説あります。

小栗忠順の墓

墓は、最期の地に近い群馬県高崎市倉渕町の東善寺にあります。地元では「小栗の里」として顕彰され、資料館が置かれています。

幕府の造船所を作った男が、山あいの村に眠っていることになります。

小栗忠順の年表

出来事
1827 年旗本小栗家に生まれる
1859 年目付となる
1860 年遣米使節の監察として渡米。貨幣の金含有量を分析させて交渉
1860 年代前半外国奉行・勘定奉行・軍艦奉行・江戸町奉行を歴任
1865 年 11 月フランス公使ロッシュと組み、横須賀製鉄所を起工(慶応元年 9 月 27 日)
1868 年 1 月鳥羽・伏見の敗戦後、江戸城の会議で抗戦を主張し、全役職を罷免
1868 年 5 月権田村で新政府軍に捕らえられ、烏川の河原で斬首。満 40 歳

恭順を選んだ側は勝海舟高橋泥舟、仕えた将軍は徳川慶喜です。

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