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戊辰戦争とは?流れと結果をわかりやすく解説

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戊辰戦争とは?流れと結果をわかりやすく解説
「鳥羽関門の戦い」より(鳥羽伏見の戦いを描いた図) / 出典: Wikimedia Commons PD-old

江戸幕府が倒れ、明治という新しい時代が始まる。その転換は、話し合いだけで成し遂げられたわけではありませんでした。旧幕府側と新政府側が1年半にわたって各地で戦った内戦、それが戊辰戦争です。

目次

戊辰戦争とは

戊辰戦争とは、1868年1月から1869年6月にかけて、新政府軍と旧幕府軍のあいだで戦われた一連の内戦です。

京都南郊の鳥羽・伏見での衝突に始まり、江戸、東北、そして最後は蝦夷地(北海道)の箱館へと、戦場は北へ北へと移っていきました。終結したのは、五稜郭に立てこもった旧幕府軍が降伏した1869年6月です。

項目内容
期間1868年1月〜1869年6月(約1年半)
戦った勢力新政府軍(薩摩・長州・土佐などが中心)/旧幕府軍(幕臣・会津・桑名・奥羽越列藩同盟など)
主な戦場京都南郊 → 関東 → 北越・東北 → 蝦夷地
結果新政府軍の勝利。国内が新政府のもとに統一された

この戦争によって、680年あまり続いた武家政権が完全に終わりました。 大政奉還で政権は形の上では朝廷に返されていましたが、それを実力で確定させたのが戊辰戦争でした。

「戊辰」とはどういう意味か

「戊辰」は、この戦争が始まった年の干支です。

干支は十干と十二支を組み合わせた60年周期の年の呼び方で、戦端が開かれた慶応4年(1868年)が「戊辰(つちのえたつ/ぼしん)」の年にあたっていました。ここから戊辰戦争と呼ばれます。

同じ命名のしかたは幕末に多く見られます。前年に起きた「戊午の密勅」、井伊直弼の暗殺につながった一連の弾圧である「安政の大獄」など、元号や干支をそのまま事件名にするのは当時の慣習でした。

戊辰戦争はなぜ起こったのか

前年の1867年、15代将軍・徳川慶喜大政奉還によって政権を朝廷へ返上しています。戦わずに政権が移ったのなら、なぜ戦争になったのでしょうか。 ここが戊辰戦争を理解する最大の要点です。

理由は、大政奉還が「徳川家の力をどうするか」を決めていなかったことにあります。

慶喜の構想では、政権を返上したうえで、諸大名による新しい合議体制のなかで徳川家が引き続き中心的な地位を占めるはずでした。全国の領地も家臣団も徳川家に残ったままです。これでは実質的に何も変わりません。武力による討幕をめざしていた薩摩・長州にとって、これは受け入れがたい結末でした。

そこで討幕派が打った手が、1868年1月3日(慶応3年12月9日)の王政復古の大号令です。天皇を中心とする新政府の樹立を宣言し、あわせて慶喜に対して辞官納地、つまり官位を辞し領地を返上せよという要求を突きつけました。徳川家から実力を奪う決定でした。

旧幕府側はこれに激しく反発します。江戸では薩摩藩邸が焼き討ちされ、大坂に退いていた慶喜のもとでは主戦論が抑えきれなくなりました。そして1868年1月、旧幕府軍が京都へ向けて進軍し、鳥羽・伏見で新政府軍と衝突します。

戊辰戦争の経過

鳥羽伏見の戦い(1868年1月)

京都南郊で始まったこの戦いが、戊辰戦争全体の帰趨を決めました。

兵力では旧幕府軍が優勢だったとされます。しかし薩長側は装備と戦術に勝り、さらに決定的だったのが錦の御旗の登場でした。天皇の軍であることを示すこの旗が翻ったことで、旧幕府軍は「朝敵」、つまり朝廷に弓を引く賊軍という立場に転落します。

これが戦意を大きく削ぎました。旧幕府方についていた藩のなかには、朝敵となることを恐れて新政府側へ寝返るものが相次ぎます。

そして戦いのさなか、慶喜は側近だけを連れて大坂城を離れ、軍艦で江戸へ退いてしまいます。 総大将が戦場を去ったことで、旧幕府軍は組織的な戦闘力を失いました。この行動は、慶喜という人物の評価が今も割れる最大の理由となっています。

江戸無血開城(1868年5月)

新政府軍は東へ進軍し、江戸城総攻撃の期日を定めました。当時の江戸は人口百万を超える巨大都市であり、市街戦になれば被害は計り知れません。

これを回避したのが、旧幕府側の勝海舟と新政府軍参謀西郷隆盛の会談です。慶喜の恭順を条件に総攻撃は中止され、江戸城は戦火を交えることなく明け渡されました

ただし、これで関東が平穏になったわけではありません。恭順に納得しない旧幕臣らは彰義隊を結成して上野に立てこもり、7月の上野戦争で新政府軍に1日で壊滅させられています。

北越・東北の戦い(1868年夏〜秋)

戦争が最も凄惨をきわめたのが、この局面です。

新政府は、安政の大獄以来の経緯から会津藩を強く敵視し、その処分を東北諸藩に求めました。これに対し東北・北越の諸藩は奥羽越列藩同盟を結成して抵抗します。30を超える藩が加わった、大規模な同盟でした。

  • 北越戦争……長岡藩の家老・河井継之助が近代兵器を備えて奮戦しましたが、長岡城は落ち、河井も戦傷により死去しました
  • 会津戦争……会津若松城は1か月に及ぶ籠城戦の末に開城しました。少年兵で編成された白虎隊が飯盛山で自刃した悲劇は、この戦いの象徴として語り継がれています

会津の敗北によって奥羽越列藩同盟は崩壊し、東北は新政府の支配下に入りました。

箱館戦争(1868年冬〜1869年6月)

なお降伏を拒んだ勢力がありました。旧幕府海軍を率いる榎本武揚です。

榎本は軍艦を率いて江戸を脱出し、蝦夷地へ渡って箱館の五稜郭を占拠しました。新選組副長の土方歳三もこれに加わっています。

1869年5月、新政府軍が総攻撃を開始します。土方歳三は一本木関門付近で銃弾に倒れ、6月27日に五稜郭が開城して、戊辰戦争は終結しました。

戊辰戦争の年表

日付はグレゴリオ暦(新暦)に換算しています。当時の和暦とは1か月前後ずれます。

年月出来事
1867年11月徳川慶喜が大政奉還を上奏
1868年1月3日王政復古の大号令。慶喜に辞官納地を要求
1868年1月末鳥羽伏見の戦い。慶喜が大坂城を脱して江戸へ
1868年5月江戸無血開城
1868年6月奥羽越列藩同盟が成立
1868年7月上野戦争。彰義隊が壊滅
1868年夏北越戦争。長岡城が落ちる
1868年10月会津戦争。白虎隊の悲劇
1868年10月明治と改元
1868年11月会津若松城(鶴ヶ城)が開城
1868年12月榎本武揚が蝦夷地を占拠
1869年6月土方歳三が戦死。五稜郭開城により終結

戊辰戦争の結果と影響

新政府による国内統一が完成しました。 これにより、版籍奉還・廃藩置県といった中央集権化の大改革を進める前提が整います。

一方で、戦争は深い傷跡も残しました。

  • 敗者の側に立った地域の困難……とりわけ会津藩は本州最北端の斗南へ移されるなど、厳しい処遇を受けました。薩長中心の新政府に対する感情的なしこりは、その後も長く残ります
  • 武士という身分の終わり……農民や町人を含む部隊が近代兵器で戦うこの戦争は、武士が戦闘の担い手である時代が終わったことを示しました
  • 不満を抱えた士族の発生……特権を失った士族の不満は各地の反乱につながり、最終的には1877年の西南戦争へ至ります

死者はあわせて8000人あまりとされます。同時代の欧米の内戦と比べれば規模は小さいものの、その後の日本の進路を決めた戦争であったことは間違いありません。

戊辰戦争と西南戦争の違い

混同されやすい二つの内戦を整理しておきます。

項目戊辰戦争西南戦争
時期1868〜69年1877年
対立の構図新政府軍 対 旧幕府軍明治政府軍 対 不平士族
中心人物西郷隆盛・大久保利通(政府側)西郷隆盛(反乱側
争点誰が政権を握るか士族の特権と政府への不満
位置づけ幕府の終わり日本最後の内戦

注目すべきは西郷隆盛の立ち位置です。 戊辰戦争では新政府軍の参謀として勝者の側にいた西郷が、9年後の西南戦争では反乱軍の頂点に担がれて敗れます。維新が生んだ矛盾が、そのまま1人の人物の運命に現れています。

よくある質問

戊辰戦争はいつからいつまでですか。 1868年1月の鳥羽伏見の戦いから、1869年6月の五稜郭開城までの約1年半です。

戊辰戦争はどこで戦われましたか。 京都南郊に始まり、関東、北越、東北を経て、最後は蝦夷地(北海道)の箱館まで、戦場は北へ移動しました。

誰と誰が戦ったのですか。 新政府軍(薩摩・長州・土佐などが中心)と、旧幕府軍(幕臣・会津・桑名や、奥羽越列藩同盟に加わった東北諸藩)です。

なぜ旧幕府軍は負けたのですか。 装備と統率で劣ったことに加え、鳥羽伏見で「朝敵」とされたことが大きく影響しました。総大将である慶喜が早期に戦線を離脱したことも、組織的な抵抗を困難にしました。

戊辰戦争を戦った人々については土方歳三西郷隆盛勝海舟の各記事で、戦争に至る経緯は大政奉還でたどれます。ほかの記事は幕末の文化幕末の偉人からどうぞ。

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