勝海舟とは?江戸無血開城を成した生涯をわかりやすく解説

幕府の側にありながら、時代の大きな流れを冷静に見据えていた人物がいます。勝海舟です。沈みゆく幕府のなかで、彼は無用な流血を避けることに知恵を尽くしました。
目次
勝海舟の生い立ちと海軍への志
勝海舟は文政6年(1823年)、江戸の下級幕臣の家に生まれました。蘭学を学び、西洋の知識を吸収するなかで、海に囲まれた日本にこそ近代的な海軍が不可欠だと確信していきます。
長崎の海軍伝習所で学んだ勝は、1860年、咸臨丸で太平洋を横断しアメリカへ渡りました。自らの目で見た西洋世界は、彼の視野を大きく広げます。
勝海舟の写真

勝海舟と坂本龍馬の関係
勝のもとには、身分や立場を超えて多くの若者が集まりました。土佐を脱藩した坂本龍馬もそのひとりです。
幕臣でありながら国全体の海軍を構想する勝の発想は、龍馬をはじめとする志士たちに強い影響を与えました。敵味方の枠を超えて人を惹きつける度量が、勝にはあったのです。
勝海舟は何をした人か(江戸無血開城)
戊辰戦争で旧幕府が劣勢に立たされると、勝は幕府側の責任者として難局に臨みます。新政府軍が江戸へ迫るなか、彼は西郷隆盛との会談に臨みました。
両者の交渉の結果、江戸城は戦火を交えることなく明け渡されます。世にいう江戸無血開城です。百万都市・江戸を戦場にしない。この合意が救った命の数は計り知れません。
勝海舟の維新後といつ死んだのか
明治を迎えてもなお、勝は旧幕臣の立場から新政府と関わり、節目で重要な役割を果たしました。1899年1月19日に世を去るまで、激動の時代を見つめ続けた数少ない証人でした。満75歳でした。
時流に流されず、しかし時流の本質を見抜く。勝海舟は、そうした冷静さの大切さを今に伝えています。
勝海舟の刀と生涯人を斬らなかった理由
幕末を代表する人物でありながら、勝海舟は生涯、人を斬っていません。
晩年の談話を集めた『氷川清話』のなかで、勝はその理由を自ら語っています。攘夷の激しい時期、彼は洋学に通じた幕臣として何度も命を狙われました。それでも刀を抜かなかったのは、抜けば相手も抜く、斬れば恨みが残ると考えたからだといいます。
有名なのが、刀の柄と鞘を紐で結わえて、すぐには抜けないようにしていたという逸話です。とっさに刀へ手が伸びる自分を、物理的に封じてしまったわけです。剣術は島田虎之助のもとで直心影流を修め、免許を得るほどの腕前だったと伝わるだけに、この徹底ぶりは際立ちます。
西郷隆盛との会談で江戸を戦火から救った人物が、個人としても最後まで刀を使わなかった。この一貫性は、勝という人物を理解するうえでの要になります。
勝海舟の父・勝小吉と家系
勝家は、幕臣とはいっても最下層に近い貧しい旗本でした。曾祖父にあたる米山検校は越後出身の盲人で、金融で財を成し、その資金で御家人の株を買ったと伝えられます。勝家の武士の身分は、いわば買い取られたものでした。
父の勝小吉は、破天荒な人物として知られます。定職に就かず、喧嘩と放浪に明け暮れ、家督を早々に譲って隠居しました。その半生を自ら綴った『夢酔独言』は、武士が書いたものとしては異例に率直で、当時の下層武士の暮らしを伝える史料としても読まれています。
貧しい家に生まれ、身分の低さゆえに苦労を重ねたこと。そして父を通じて、体面を取り繕う武士の世界を早くから相対化して見ていたこと。勝が身分にこだわらず、脱藩浪人だった坂本龍馬を弟子にできたのは、この出自と無関係ではありません。
勝海舟の墓
墓は東京都大田区の洗足池公園にあります。妻・民子とともに葬られており、隣接して西郷隆盛を偲んで勝が建てた「西郷隆盛留魂碑」が移設されています。
かつての敵将を生涯敬い続け、その死後は名誉回復に力を尽くした勝の姿勢が、この配置にあらわれています。洗足池は勝が晩年に別邸を構えて愛した土地でもあります。
勝海舟はどんな性格だったのか
勝を語るときにまず挙げられるのは、歯に衣着せぬ話しぶりです。『氷川清話』には、旧幕臣であるにもかかわらず徳川の内情を辛辣に評し、明治政府の要人も遠慮なく論評する語りが並びます。敵にも味方にも媚びない口調は痛快ですが、そのぶん敵も多くつくりました。
一方で、現実を直視する冷徹さが一貫しています。幕府に仕えながら幕府の限界を早くから見抜き、勝てない戦いはしないという判断を下しました。江戸無血開城はその最大の成果です。
写真に残る勝は端正な風貌で知られ、今日でも「幕末の美男子」として名が挙がることがあります。ただし本人はそうした評価とは無縁に、晩年まで市井の翁のような暮らしぶりを好みました。
勝海舟の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1823年 | 江戸・本所に生まれる(父は勝小吉) |
| 1850年ごろ | 蘭学塾を開く |
| 1855年 | 長崎海軍伝習所に派遣される |
| 1860年 | 咸臨丸で渡米 |
| 1862年 | 軍艦奉行並に就任。坂本龍馬が門下に入る |
| 1864年 | 神戸海軍操練所を開設(翌年閉鎖) |
| 1868年3月 | 西郷隆盛と会談し、江戸無血開城が決まる |
| 1872年 | 明治政府に出仕。のちに海軍卿を務める |
| 1899年1月19日 | 死去。満75歳 |
よくある質問
勝海舟は何をした人ですか。
幕臣として海軍の建設に関わり、長崎海軍伝習所で学んで咸臨丸で太平洋を渡りました。戊辰戦争では西郷隆盛と会談し、江戸城の無血開城をまとめています。
勝海舟は人を斬ったことがあるのですか。
本人は生涯人を斬らなかったと語っています。剣は島田虎之助に学び、免許を得るほどの腕でした。
勝海舟と坂本龍馬の関係は何ですか。
龍馬は勝の門人となり、神戸海軍操練所などの構想を共有しました。龍馬の海運と国家構想は、勝から受け取った部分が大きいとされます。
勝海舟の墓はどこにありますか。
東京都大田区の洗足池のほとりにあります。
幕末を生きた人々の群像は、幕末の偉人の各記事でたどれます。
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