幕末の偉人

吉田稔麿とは?池田屋で消えた松下村塾の四天王

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吉田稔麿とは?池田屋で消えた松下村塾の四天王

松下村塾で最も惜しまれた死は、この人のものかもしれません。吉田稔麿——読み方は「よしだ としまろ」。二十三歳で池田屋事件に消えました。

目次

吉田稔麿とは何をした人か

吉田稔麿は、長州藩の下級武士出身の志士です。吉田松陰の松下村塾に学び、久坂玄瑞高杉晋作と並んで塾の俊才に数えられました。入江九一を加えて松門四天王と呼ばれます。

彼がやったことは、大きく二つです。

第一に、江戸で情報を取ったこと。 一時期は藩を離れ、江戸で旗本の家に身を寄せながら、幕府側の動きを見ていました。

第二に、身分の外にいた人々を兵に組もうとしたこと。 のちに屠勇隊と呼ばれる構想で、当時の武士の発想からはかなり外れています。

天保 12 年閏 1 月 24 日(1841 年 3 月 16 日)に生まれ、元治元年 6 月 5 日(1864 年 7 月 8 日)に死にました。

吉田稔麿の松下村塾のなかでの位置

稔麿は萩の松本村の生まれで、吉田松陰と同じ村の出身です。家格は低く、足軽よりさらに下に近い層でした。

松下村塾は、身分で入塾者を選ばなかった塾です。そこに稔麿のような家の子が入り、藩の上士の子と机を並べました。塾生のなかでの評価は高く、松陰も彼の才を買っていたと伝わります。

塾の同輩は、そのまま幕末長州の中心になります。高杉晋作久坂玄瑞入江九一前原一誠品川弥二郎伊藤博文山県有朋このうち三人は、稔麿と同じく明治を見ずに死んでいます。

吉田稔麿の屠勇隊という発想

稔麿の名を特別にしているのが、この構想です。

当時、皮革や屠畜に関わる仕事に就いていた人々は、身分制度の外側に置かれていました。 武士でも百姓でも町人でもない扱いです。稔麿は、その人々を兵として組織することを藩に建議しました。

理屈は単純です。外国艦隊と戦うなら、兵は多いほうがいい。 そして身分の外にいる人々にとって、兵になることは身分の上昇を意味しました。

そしてこの建策は、紙の上で終わっていません。長州藩は同じ文久 3 年(1863 年)のうちに、屠勇の取立を令しています。

同じ発想は、高杉晋作が文久 3 年(1863 年)に作った奇兵隊にも通じます。武士だけで軍隊を作るのをやめるという一点で、長州は他藩より早く踏み込みました。稔麿自身も奇兵隊に加わっています。

幕末の軍制改革を「身分の解体」という側から見ると、稔麿はその先端にいました。

吉田稔麿の最期と池田屋事件

元治元年 6 月 5 日(1864 年 7 月 8 日)の夜、京都三条の旅宿・池田屋に集まっていた尊攘派の志士を、新選組が襲います。池田屋事件です。

稔麿はこの夜に死にました。ただし、どう死んだかは確定していません。

  • 池田屋で新選組と斬り合って死んだとする説
  • 池田屋を脱して長州藩邸へ走り、引き返す途中で会津藩兵に囲まれて自刃したとする説

いずれも古くから並び立っており、現場が混乱していたため、当夜の詳細は今も詰め切れていません。

満 23 歳でした(享年は数えの 24)。同じ夜には土佐の北添佶摩らも死に、翌月の禁門の変では久坂玄瑞入江九一が死んでいます。池田屋から一か月半で、長州は塾の中心を三人失いました。

吉田稔麿が生き延びていたら

稔麿については、後世の人物がしばしば「生きていれば」と語っています。

その理由は経歴を見ると分かります。彼は情報を取る仕事と、制度を作る仕事の両方をやっていました。 明治政府がまさに必要とした種類の能力です。

同期の伊藤博文は初代内閣総理大臣になり、山県有朋は陸軍と内務を握りました。その席のひとつに稔麿が座っていた可能性は、決して低くありません。

明治 24 年(1891 年)、贈従四位。

吉田稔麿の年表

出来事
1841 年 3 月 16 日長州萩・松本村に生まれる(天保 12 年閏 1 月 24 日)
1850 年代後半松下村塾に学ぶ
1859 年吉田松陰安政の大獄で処刑される
1860 年代前半江戸で旗本の家に身を寄せ、幕府側の動きを探る
1863 年帰藩して奇兵隊に加わり、身分の外にいた人々を兵に組む案を建議する
1864 年 7 月 8 日池田屋事件で死去(元治元年 6 月 5 日)。満 23 歳
1891 年贈従四位

同じ塾の同輩は高杉晋作久坂玄瑞入江九一、襲った側は近藤勇沖田総司らの新選組です。

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