品川弥二郎とは?トコトンヤレ節を作り選挙干渉で辞めた男の生涯

戊辰戦争で日本初の軍歌を作った男が、日本初の選挙干渉事件を起こしました。品川弥二郎。同じ人物です。
目次
品川弥二郎とは何をした人か
品川は、長州藩士から明治政府の大臣に進んだ政治家です。
その生涯は三つに分かれます。
第一に、「宮さん宮さん」を作った人として。 戊辰戦争で新政府軍が歌った行軍歌トコトンヤレ節の詞は、品川が作ったと伝えられます。
第二に、協同組合を日本に持ち込んだ人として。 ドイツで信用組合を見て、日本の産業組合制度の基礎を作りました。
第三に、選挙干渉事件の当事者として。 内務大臣として第 2 回総選挙に介入し、死者を出して辞任しました。
天保 14 年(1843 年)に生まれ、明治 33 年(1900 年)に没しています。
品川弥二郎の肖像

品川弥二郎と松下村塾
品川は長州萩の下級武士の家に生まれ、松下村塾で吉田松陰に学びました。
塾生としては年少の部で、高杉晋作や久坂玄瑞のような双璧ではありません。しかし彼は生き残りました。
禁門の変、第二次長州征討、そして戊辰戦争。品川は動乱のほぼ全期間を戦場で過ごしています。
品川弥二郎のトコトンヤレ節
慶応 4 年(1868 年)、新政府軍が東へ進みます。
このとき軍が歌ったのが、「宮さん宮さん お馬の前に ひらひらするのは 何じゃいな」で始まる歌です。トコトンヤレ節、あるいは宮さん宮さんと呼ばれます。
「宮さん」は東征大総督の有栖川宮熾仁親王、「ひらひらするもの」は錦の御旗。自軍が官軍であることを、行軍しながら市民に知らせる歌でした。
詞は品川弥二郎、曲は大村益次郎によるものと伝えられます。ただし作者については諸説あり、確定しているとは言えません。
いずれにせよ、これは日本で最初の近代的な軍歌・行軍歌とされます。「政治的な主張を、覚えやすい節に乗せて広める」という手法が、この時点で使われていたことになります。
品川弥二郎がドイツで見たもの
維新後、品川はヨーロッパへ渡り、のちに駐独公使を務めました。
ドイツで彼が注目したのは、軍事や憲法ではありません。信用組合です。
農民や小さな商人が金を出し合って組合を作り、互いに融通する仕組み。個人では銀行から借りられない人々が、集まれば借りられるようになる。
品川はこれを日本に持ち込もうとしました。産業組合——のちの農協や信用金庫につながる制度の構想です。産業組合法案は、品川が死ぬ四日前の明治 33 年 2 月 22 日に成立しました。公布は同年 3 月 7 日で、彼の死後です。法律の成立は見届け、施行される国は見ていないことになります。
また、独逸学協会学校(現在の獨協学園)の設立にも関わりました。
品川弥二郎と選挙干渉事件
そして明治 25 年(1892 年)です。
品川は第 1 次松方内閣の内務大臣でした。当時、政府は議会と激しく対立していました。予算を通したい政府に対し、民権派の議員が反対する——初期議会の構図です。
この年の第 2 回衆議院議員総選挙で、品川は各府県の知事に指示を出し、政府に反対する候補を落とすために介入しました。
警察が動き、民権派の集会が妨害され、有権者に圧力がかかりました。衝突によって死者 25 名、負傷者は数百人に及びます。
選挙のために人が死んだわけです。
結果として、政府は望んだ議席を得られませんでした。批判は激しく、品川は内務大臣を辞任します。
日本の選挙史上、最悪の官憲介入として記録される事件です。
品川弥二郎という人物の振れ幅
品川の生涯は、評価の難しい形をしています。
行軍歌を作った才覚と、協同組合を持ち込んだ先見は、確かに彼のものです。農民や小商人が自力で立つための仕組みを、彼は本気で作ろうとしました。
同時に、その同じ人物が、有権者の選択を暴力で曲げようとしました。
「民の生活を良くしたい」と「民の政治判断は信用しない」が同居していたことになります。初期の明治政府に共通する構えでもありました。
品川弥二郎の最期
明治 33 年(1900 年)に没しました。満 56 歳です。
松下村塾の同門で、彼より長く生きた者はほとんどいません。高杉晋作は病死し、久坂玄瑞は禁門の変で死に、前原一誠は萩の乱で斬られました。品川は明治の終わり近くまで政治の場にいた一人です。
品川弥二郎の年表
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