幕末の偉人

入江九一とは?足軽の子から松下村塾四天王になった志士

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入江九一とは?足軽の子から松下村塾四天王になった志士

吉田松陰が最も危険な計画を持ち出したとき、賛成したのは兄弟二人だけでした。その兄が入江九一。足軽の子です。

目次

入江九一とは何をした人か

九一は、長州藩士であり、松下村塾の門下生です。

松下村塾四天王——高杉晋作久坂玄瑞・吉田稔麿・入江九一の一人に数えられます。

その生涯で決定的なことは二つです。

第一に、松陰の計画に賛同したこと。 安政 6 年(1859 年)、大半の門下生が反対した危険な計画に、弟の野村和作とともに賛同しました。

第二に、禁門の変で死んだこと。 元治元年(1864 年)7 月、京都で自刃しました。満 27 歳です。

天保 8 年(1837 年)に生まれ、元治元年(1864 年)に没しました。

入江九一の生い立ちと足軽の家

九一の出自は、松下村塾の門下でも下級身分にあたるものでした。

長州藩の足軽の子です。足軽は武士の最下層で、藩の意思決定にはまったく関わりません。

同じ塾にいた高杉晋作は上級藩士の子、久坂玄瑞は藩医の子です。九一の家柄は、それとは比較になりません。

松下村塾が特異だったのは、この点です。吉田松陰は入塾に身分を問いませんでした。足軽・農民・町人の子も通っており、足軽の子と上士の子が同じ場で議論する——当時の日本で、これは異例です。

そして松陰は、九一を高く評価しました。

入江九一が松陰の計画に賛成した理由

安政 6 年(1859 年)、松陰は江戸へ送られる前の時期に、ある計画を立てます。

参勤で京都を通る藩主を、志士が押しとどめて朝廷への直訴に向かわせるという構想でした。要駕策と呼ばれます。

これは藩の命令に反する行為であり、成功しても失敗しても関係者は処罰されます。松陰は門下生にこれを持ちかけました。

ほぼ全員が反対しました。あるいは、答えを避けました。無理だ、時期が早い、と。

賛成したのは、入江九一と、その弟・野村和作でした。野村は実行に動いて投獄されています。

松陰はこのとき、門下生の多くに強い失望を示したと伝えられます。そして九一への評価を一段上げました。

なぜ入江兄弟だけが賛成したのか。推測の域ですが、失うものが少なかったという見方があります。上級藩士の子は家の立場を背負っています。足軽の子には、その重さがありません。

身分が低いことが、行動の自由になっていたという読み方です。

入江九一の最期と禁門の変

松陰は同年、安政の大獄で処刑されます。

九一はその後も長州の運動に加わり続けました。文久 3 年(1863 年)の攘夷実行、そして藩内の路線闘争です。

元治元年 7 月 19 日(西暦では 1864 年 8 月 20 日)、禁門の変が起こります。

長州軍は京都へ突入し、御所付近で会津・薩摩・桑名の兵と戦いました。

九一は、久坂玄瑞とともに鷹司邸にいました。長州の嘆願を朝廷へ取り次いでもらうためです。しかし邸は包囲され、火がかけられました。

脱出を図った九一は、敵兵の槍で目を突かれ、そのまま自刃したと伝えられます。満 27 歳です。

同じ日、久坂玄瑞も同じ邸で自刃し、来島又兵衛は蛤御門で死にました。

松下村塾四天王のうち、吉田稔麿もこの日に死んでいます。一日で二人です。

入江九一の弟のその後

九一には弟がいました。野村靖です。

野村は兄と同じく松下村塾に学び、兄と違って生き延びました。そして明治政府で内務大臣を務めています。

同じ足軽の家から、一人は二十七歳で死に、一人は大臣になったことになります。

入江九一の年表

出来事
1837 年長州藩の足軽の子として生まれる
1850 年代後半松下村塾で吉田松陰に学ぶ
1859 年大半の門下生が反対した松陰の計画に、弟・野村和作とともに賛同する
1859 年松陰が安政の大獄で処刑される
1863 年長州の攘夷運動に加わる
1864 年 8 月 20 日禁門の変。鷹司邸で自刃。満 27 歳

同じ四天王は高杉晋作久坂玄瑞、同じ日に死んだのは来島又兵衛、師は吉田松陰です。

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