久坂玄瑞とは?松下村塾の双璧と呼ばれた理論家の生涯と最期

吉田松陰が妹を嫁がせた門下生がいます。久坂玄瑞。松陰が最も期待した理論家であり、二十四歳で死にました。
目次
久坂玄瑞とは何をした人か
玄瑞は、長州藩士であり、松下村塾の門下生です。高杉晋作と並んで「双璧」と呼ばれました。
その役割は三つです。
第一に、長州の攘夷路線を理論で組み立てたこと。 藩論を尊王攘夷へ振り切らせた文書と論争は、多くが玄瑞の手によります。
第二に、朝廷と諸藩を動かす工作をしたこと。 京都で公卿や他藩の志士と接触し、長州を政治の中心に押し上げました。
第三に、禁門の変で死んだこと。 元治元年(1864 年)7 月、京都の鷹司邸で自刃しました。満 24 歳です。
天保 11 年(1840 年)に生まれ、元治元年(1864 年)に没しました。
久坂玄瑞の肖像

久坂玄瑞の生い立ちと松下村塾
玄瑞は長州藩の藩医・久坂良迪の子として生まれました。名は通武、通称は義助、のちに玄瑞と称します。
十代前半で両親と兄を相次いで失いました。孤児に近い状態で家を継ぎ、そこから学問へ進みます。
そして萩の松下村塾で吉田松陰に学びました。
松陰は玄瑞を高く評価しました。議論の切れ味と、文章を書く力において、塾中で抜けていたのです。高杉晋作の行動力と、玄瑞の論理。この二人が対になって「双璧」と呼ばれました。
そして松陰は、妹の文(美和子)を玄瑞に嫁がせています。門下生を身内にしたわけです。
久坂玄瑞と航海遠略策の論争
安政 6 年(1859 年)、安政の大獄で松陰が処刑されます。
その後の長州藩で、玄瑞は具体的な政治闘争に入りました。相手は長井雅楽という藩の重臣です。
長井が唱えたのは「航海遠略策」でした。開国を認め、貿易で富を蓄え、その力で国を守る。朝廷と幕府が協調して、日本全体で外に出ていくべきだ——という現実的な構想です。
玄瑞はこれに反対しました。不平等な条約を認めたまま貿易を始めれば、日本は西洋に食われる。まず条約を破棄し、そのうえで力を蓄えるべきだ、と。「破約攘夷」の立場です。
この論争に、玄瑞は勝ちました。長井は失脚し、切腹を命じられます。長州藩の路線は攘夷に定まりました。
藩の方向を、二十代前半の若者が文書と議論で決めたことになります。
久坂玄瑞の攘夷実行と挫折
文久 3 年(1863 年)、長州藩は攘夷を実行に移します。下関海峡を通る外国船への砲撃です。
しかし報復は速く、圧倒的でした。アメリカ・フランス艦が反撃し、長州の砲台は破壊されました。翌元治元年(1864 年)には四国連合艦隊が下関を砲撃し、長州は完敗します。
玄瑞が組み立てた路線は、実行してみると成立しませんでした。
同じ時期、井上馨や伊藤博文はイギリスへ密航し、攘夷が不可能だと悟って帰国しています。
久坂玄瑞の最期と禁門の変
文久 3 年 8 月(1863 年 9 月)の政変で、長州は京都から追われました。
藩内では進発論が起こります。来島又兵衛が主戦派の中心でした。
玄瑞の立場は、そこまで単純ではありませんでした。彼は京都で朝廷や諸藩への工作を続けており、武力ではなく政治で立場を回復する道を探っていたとされます。
しかし藩内の勢いは止まらず、玄瑞も進発に加わることになります。
元治元年 7 月 19 日(西暦では 1864 年 8 月 20 日)、禁門の変。
玄瑞は御所近くの鷹司邸にいました。長州の嘆願を朝廷に取り次いでもらうためです。しかし戦闘が始まり、邸は包囲され、火がかかりました。
玄瑞は、同志の寺島忠三郎とともに鷹司邸で自刃しました。満 24 歳です。
同じ日、来島又兵衛も蛤御門で死んでいます。
久坂玄瑞が残したもの
玄瑞の死後、妻の文は長州で暮らし、のちに再婚しました。
そして玄瑞が敷いた攘夷路線は、彼の死の翌年に捨てられます。高杉晋作の挙兵で藩論が変わり、長州は開国して力をつけ、その力で幕府を倒す方向へ転換したのです。
玄瑞が論争で倒した長井雅楽の構想に、結果として近い形でした。
もし玄瑞が生きていたら、この転換をどう理屈づけたか——それは分かりません。二十四歳で死んだため、彼は自分の路線が破れるところまでしか見ていないことになります。
久坂玄瑞の年表
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