幕末の偉人

高杉晋作とは?27 歳で死んだ風雲児の生涯・死因・墓を解説

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高杉晋作とは?27 歳で死んだ風雲児の生涯・死因・墓を解説

長州藩を倒幕へと大きく傾けた立役者、高杉晋作。その生涯はわずか27年でしたが、既成の枠組みを次々と打ち破る奔放さと行動力で、激動の幕末を駆け抜けました。

目次

高杉晋作の生い立ちと松下村塾

高杉晋作は天保10年(1839年)、長州藩士の家に生まれました。吉田松陰松下村塾に学び、久坂玄瑞とともに塾の双璧と称されます。松陰は晋作の非凡な才を見抜きつつ、その奔放さを案じてもいたと伝えられます。

高杉晋作の写真

高杉晋作の写真
高杉晋作 肖像写真出典: Wikimedia Commons PD-Japan-oldphoto

高杉晋作は何をした人か(奇兵隊の創設)

長州藩は外国との衝突で攘夷の限界を思い知らされ、軍制の立て直しを迫られていました。そこで晋作が編み出したのが、奇兵隊です。

奇兵隊は、武士だけでなく農民や町人をも兵として受け入れた点に最大の特色がありました。身分にとらわれず実力で軍を組むという発想は、当時の常識を大きく覆すものです。この新しい軍は、後の長州の戦いで大きな力を発揮していきました。

高杉晋作の功山寺挙兵

藩内で保守派が勢いを増し、倒幕の動きが押し戻されようとしたとき、晋作は劣勢をものともせず挙兵に踏み切ります。功山寺での決起です。

わずかな手勢から始まったこの動きは、やがて藩論を再び倒幕へと引き戻すことに成功しました。窮地で起死回生をはかる晋作の真骨頂が、ここに表れています。

高杉晋作の死因

長州が薩長同盟を背景に倒幕へと突き進むなか、晋作は肺の病(肺結核とみられます)に倒れました。1867年5月17日、維新の到来を目前にして下関で世を去ります。数えで29、満27歳でした。

新時代の幕開けを見ることはかないませんでしたが、彼が遺した「身分を超えて力を結集する」という発想は、近代日本の軍と社会へと受け継がれていきました。

高杉晋作の生没年と誕生日

高杉晋作が生まれたのは天保10年8月20日、西暦に直すと1839年9月27日です。長門国萩(現在の山口県萩市)の、藩医ではなく上級藩士の家でした。

没したのは1867年5月17日(慶応3年4月14日)。満27歳、数えで29です。大政奉還のわずか5か月前で、王政復古はその後のことですから、晋作は自らが押し進めた倒幕の結末をまったく見ていません。

項目内容
生年月日1839年9月27日(天保10年8月20日)
没年月日1867年5月17日(慶応3年4月14日)
享年満27歳(数えで29)
出身長門国萩(山口県萩市)

高杉晋作の墓とゆかりの地

晋作の墓は、東行庵(山口県下関市吉田)にあります。「東行」は晋作の号で、西へ行った西行法師に対して東へ行く、という含みがあるとされます。

病床の晋作を看取ったとされる愛人・おうのは、その死後に出家して谷梅処と名乗り、この地で晋作の菩提を弔い続けました。東行庵はその庵に由来します。

主なゆかりの地は次のとおりです。

  • 東行庵(下関市吉田)……墓所です。晋作の遺品を収めた記念館があります
  • 高杉晋作誕生地(萩市)……生家が保存されています
  • 松下村塾(萩市)……吉田松陰に学んだ場所で、松陰神社の境内に現存します
  • 功山寺(下関市)……劣勢のなか挙兵した寺です

高杉晋作と久坂玄瑞は松下村塾の双璧

松下村塾において、晋作と並び称されたのが久坂玄瑞です。2人は「識の高杉、才の久坂」などと評され、松陰門下の双璧とされました。

性格は対照的だったと伝えられます。久坂が理論に強く、志士として正面から攘夷運動を牽引したのに対し、晋作は既存の枠を壊して局面を動かす型でした。松陰は2人を高く買いながら、久坂の才を上に置く評を残したとも伝わります。

久坂は1864年の禁門の変で自刃し、25歳で世を去りました。同門ではほかに吉田稔麿池田屋事件で落命しており、松下村塾の逸材が相次いで失われています。晋作の早世もあり、松陰門下で維新後まで生き残って国政を担ったのは、伊藤博文や山県有朋といった、当時は必ずしも筆頭格ではなかった面々でした。

高杉晋作はどんな性格だったのか

晋作の人物像を伝える逸話は数多く残っています。

上海で世界を見たこと。 1862年、幕府の使節船で上海へ渡った晋作は、列強に半ば支配された清国の実情を目の当たりにします。この経験が、攘夷の空論では国を守れないという現実感覚を彼に植えつけました。

奇兵隊という発想。 武士以外にも門戸を開いた奇兵隊は、身分制度そのものへの挑戦でした。晋作自身は上級藩士の出であり、自らの特権を掘り崩す提案でもあったのです。

功山寺の挙兵。 藩論が保守に傾いたとき、晋作は80人ほどの手勢で決起します。勝算があったとは言いがたいものの、この一手が藩の流れを引き戻しました。

辞世として伝えられるのが、次の句です。

おもしろき こともなき世を おもしろく

下の句「すみなすものは心なりけり」は、看取った野村望東尼が付けたとされます。この句自体、晋作の作かどうかを含めて確実な裏づけがあるわけではありませんが、既成の枠を面白がって壊し続けた彼の生き方をよく映すものとして広く知られています。

高杉晋作の年表

出来事
1839年9月27日長門国萩に生まれる
1857年松下村塾に入門し、吉田松陰に学ぶ
1862年幕府使節に加わり上海へ渡る
1863年奇兵隊を創設
1864年四国連合艦隊の下関砲撃。講和交渉にあたる
1864年12月功山寺で挙兵。藩論を倒幕へ引き戻す
1866年第二次長州征討で幕府軍を破る
1867年5月17日下関にて病没。満27歳

よくある質問

高杉晋作は何をした人ですか。

吉田松陰の松下村塾に学んだ長州藩士で、身分を問わない軍隊である奇兵隊を組織し、功山寺の挙兵で藩論を討幕へ引き戻しました。

奇兵隊とは何ですか。

武士以外の身分の者も加えて編成した長州藩の部隊です。武士だけで軍を作るのをやめた点が、以後の軍制改革につながりました。

高杉晋作はどのように死んだのですか。

慶応 3 年 4 月 14 日(1867 年 5 月 17 日)、肺結核により下関で病没しました。満 27 歳です。大政奉還の半年前にあたります。

高杉晋作の墓はどこにありますか。

山口県下関市の東行庵です。号の「東行」にちなみます。

長州の同志たちの歩みは、幕末の偉人の一覧からどうぞ。

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