幕末の偉人

前原一誠とは?松下村塾から萩の乱に散った長州藩士の生涯

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前原一誠とは?松下村塾から萩の乱に散った長州藩士の生涯
前原一誠 肖像写真(〜1877) / 出典: Wikimedia Commons Public domain

維新をつくった側の人間が、その維新に反乱を起こしました。前原一誠。吉田松陰の門下生であり、明治政府の参議まで進んだ男です。

目次

前原一誠とは何をした人か

前原一誠は、長州藩士であり、明治政府の高官であり、そして反乱の首謀者です。もとの名は佐世八十郎といいました。

その生涯は三つに折れます。

第一に、松下村塾の門下生として。 吉田松陰に学び、その人柄を高く評価されました。

第二に、戊辰戦争の指揮官として。 北越の戦線で参謀を務め、河井継之助の長岡藩と戦っています。

第三に、萩の乱の首領として。 明治 9 年(1876 年)、故郷の萩で士族を率いて挙兵し、敗れて斬首されました。

天保 5 年(1834 年)に生まれ、明治 9 年(1876 年)に没しています。

吉田松陰が前原一誠をどう評価していたか

前原は、萩の松下村塾吉田松陰に学びました。同門には高杉晋作や久坂玄瑞がいます。

松陰は塾生一人ひとりを克明に評していますが、前原については、才気よりも誠実さを高く買いました。議論で人を圧するタイプではなく、任せたことを黙って果たす種類の人間だと見ていたのです。

この評価は、その後の前原の生き方をよく言い当てています。彼は演説の名手でも策略家でもなく、そして最後まで、思ったことを曲げませんでした。

前原一誠と北越の戦場

慶応 4 年(1868 年)、戊辰戦争が始まります。

前原は新政府軍の参謀として北越戦線に出ました。ここで対したのが、長岡藩の河井継之助です。長岡城は二度奪い合われ、北越戦線は戊辰戦争でも屈指の激戦になりました。

戦後、前原は越後の民政を担当します。ここで彼が取り組んだのが、信濃川の分水でした。

信濃川の氾濫は、越後の農民を長年苦しめてきた問題です。前原は分水路の必要を強く建言しました。軍人としてではなく、行政官として現地の困窮に向き合った時期です。

前原一誠はなぜ政府を去ったのか

明治 2 年(1869 年)、大村益次郎が暗殺されます。前原はその後任として兵部大輔——軍政の実質的な責任者になりました。参議にも列しています。長州出身の維新の功臣として、政府の中枢に入ったわけです。

しかし、長くは続きませんでした。

軍制をどうするかで、木戸孝允山県有朋と衝突します。明治 3 年(1870 年)、前原は職を辞して萩へ帰りました。

前原一誠と士族の不満

明治政府は、武士という身分を段階的に解体していきます。

廃刀令で刀を差すことを禁じ、秩禄処分で家禄——武士が代々受け取ってきた収入——を打ち切りました。数百年続いた身分と生活の基盤が、数年で消えたことになります。

明治 9 年(1876 年)、この不満が各地で噴き出しました。熊本の神風連の乱、福岡の秋月の乱が相次ぎます。

そして同じ年の 10 月、萩でも兵が挙がりました。萩の乱です。首領に立ったのが前原一誠でした。

前原一誠の最期と萩の乱

前原の計画は、山陰を通って京都へ出て、朝廷に直接訴えるというものでした。

しかし挙兵は続きません。政府軍の鎮圧は速く、萩の士族は敗走します。前原は船で脱出を図りましたが、島根で捕らえられました。

明治 9 年 12 月 3 日、萩で斬首されます。満 42 歳でした。

松下村塾の門下生としては、最後まで生き残った一人です。高杉晋作は病死し、久坂玄瑞は禁門の変で死に、伊藤博文山県有朋は政府の頂点へ進みました。同じ塾から出た者たちが、政府と反乱軍に分かれて撃ち合ったことになります。

翌明治 10 年(1877 年)には、西郷隆盛西南戦争が起こります。萩の乱は、その最後の大反乱の前触れにあたりました。

前原一誠の墓

墓は萩市にあります。萩では、松下村塾の門下生として顕彰されつつ、乱の首領でもあるという二重の扱いを受けてきました。

前原一誠の年表

出来事
1834 年長州萩に生まれる
1850 年代松下村塾で吉田松陰に学ぶ
1868 年戊辰戦争の北越戦線で参謀を務める
1868〜69 年越後の民政を担当し、信濃川の分水を建言
1869 年大村益次郎の後任として兵部大輔となる
1870 年木戸孝允らと対立して辞職、萩へ帰る
1876 年 10 月萩の乱を起こす
1876 年 12 月島根で捕縛され、萩で斬首。満 42 歳

同じ松下村塾の門下生は高杉晋作伊藤博文山県有朋、北越で戦った相手は河井継之助です。

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