前原一誠とは?松下村塾から萩の乱に散った長州藩士の生涯

維新をつくった側の人間が、その維新に反乱を起こしました。前原一誠。吉田松陰の門下生であり、明治政府の参議まで進んだ男です。
目次
前原一誠とは何をした人か
前原一誠は、長州藩士であり、明治政府の高官であり、そして反乱の首謀者です。もとの名は佐世八十郎といいました。
その生涯は三つに折れます。
第一に、松下村塾の門下生として。 吉田松陰に学び、その人柄を高く評価されました。
第二に、戊辰戦争の指揮官として。 北越の戦線で参謀を務め、河井継之助の長岡藩と戦っています。
第三に、萩の乱の首領として。 明治 9 年(1876 年)、故郷の萩で士族を率いて挙兵し、敗れて斬首されました。
天保 5 年(1834 年)に生まれ、明治 9 年(1876 年)に没しています。
前原一誠の写真

吉田松陰が前原一誠をどう評価していたか
前原は、萩の松下村塾で吉田松陰に学びました。同門には高杉晋作や久坂玄瑞がいます。
松陰は塾生一人ひとりを克明に評していますが、前原については、才気よりも誠実さを高く買いました。議論で人を圧するタイプではなく、任せたことを黙って果たす種類の人間だと見ていたのです。
この評価は、その後の前原の生き方をよく言い当てています。彼は演説の名手でも策略家でもなく、そして最後まで、思ったことを曲げませんでした。
前原一誠と北越の戦場
慶応 4 年(1868 年)、戊辰戦争が始まります。
前原は新政府軍の参謀として北越戦線に出ました。ここで対したのが、長岡藩の河井継之助です。長岡城は二度奪い合われ、北越戦線は戊辰戦争でも屈指の激戦になりました。
戦後、前原は越後の民政を担当します。ここで彼が取り組んだのが、信濃川の分水でした。
信濃川の氾濫は、越後の農民を長年苦しめてきた問題です。前原は分水路の必要を強く建言しました。軍人としてではなく、行政官として現地の困窮に向き合った時期です。
前原一誠はなぜ政府を去ったのか
明治 2 年(1869 年)、大村益次郎が暗殺されます。前原はその後任として兵部大輔——軍政の実質的な責任者になりました。参議にも列しています。長州出身の維新の功臣として、政府の中枢に入ったわけです。
しかし、長くは続きませんでした。
軍制をどうするかで、木戸孝允や山県有朋と衝突します。明治 3 年(1870 年)、前原は職を辞して萩へ帰りました。
前原一誠と士族の不満
明治政府は、武士という身分を段階的に解体していきます。
廃刀令で刀を差すことを禁じ、秩禄処分で家禄——武士が代々受け取ってきた収入——を打ち切りました。数百年続いた身分と生活の基盤が、数年で消えたことになります。
明治 9 年(1876 年)、この不満が各地で噴き出しました。熊本の神風連の乱、福岡の秋月の乱が相次ぎます。
そして同じ年の 10 月、萩でも兵が挙がりました。萩の乱です。首領に立ったのが前原一誠でした。
前原一誠の最期と萩の乱
前原の計画は、山陰を通って京都へ出て、朝廷に直接訴えるというものでした。
しかし挙兵は続きません。政府軍の鎮圧は速く、萩の士族は敗走します。前原は船で脱出を図りましたが、島根で捕らえられました。
明治 9 年 12 月 3 日、萩で斬首されます。満 42 歳でした。
松下村塾の門下生としては、最後まで生き残った一人です。高杉晋作は病死し、久坂玄瑞は禁門の変で死に、伊藤博文と山県有朋は政府の頂点へ進みました。同じ塾から出た者たちが、政府と反乱軍に分かれて撃ち合ったことになります。
翌明治 10 年(1877 年)には、西郷隆盛の西南戦争が起こります。萩の乱は、その最後の大反乱の前触れにあたりました。
前原一誠の墓
墓は萩市にあります。萩では、松下村塾の門下生として顕彰されつつ、乱の首領でもあるという二重の扱いを受けてきました。
前原一誠の年表
あわせて読みたい

阿部十郎とは?新選組の内情を語り残した元隊士
一度脱走して復帰し、御陵衛士として近藤勇襲撃に加わり、維新後は開拓使に出仕してリンゴを育てた阿部十郎。明治30年代に史談会で語った証言が、今日の新選組像を作っています。

安藤早太郎とは?通し矢の日本記録を持つ新選組副長助勤
東大寺大仏殿の通し矢で11500本中8685本を射通し当時の日本記録を樹立した弓の名手・安藤早太郎。50歳近くで新選組の副長助勤となり、池田屋の裏庭で深手を負って死んだ隊士を解説します。

服部武雄とは?油小路で二刀を握って死んだ新選組隊士
二刀流の達人として新選組の撃剣師範を務め、御陵衛士として離脱。油小路事件で一人だけ鎖帷子を着込み、塀を背に多勢を引き受けて満身二十余創で斃れた服部武雄を解説します。
