伊藤博文とは?初代総理大臣の生涯・家系・憲法づくりを解説

日本で最初に「総理大臣」と呼ばれた男は、農民の子として生まれました。伊藤博文。就任時、44 歳。今日に至るまで最年少の記録です。
目次
伊藤博文は何をした人か
伊藤の仕事は、大きく二つに絞れます。
一つは、憲法を作ったこと。 大日本帝国憲法の起草を主導し、日本を成文憲法を持つ国にしました。
もう一つは、内閣制度を作ったこと。 それまでの太政官制を改め、総理大臣と各省大臣が内閣を構成する仕組みを導入し、自ら初代の総理大臣となりました。
明治維新が旧い体制を壊す仕事だったとすれば、伊藤が担ったのは、その後に国の骨組みを組み立てる仕事でした。
農民の子から総理大臣へ
天保 12 年(1841 年)、周防国束荷村(現在の山口県光市)に生まれます。父は林十蔵といい、農民でした。
家は貧しく、父は身を立てるために足軽・伊藤家の養子となります。これによって一家は最下級ながら武士身分に入りました。伊藤の家系をたどると、そこにあるのは代々の武家ではなく、この一度の身分移動です。
つまり彼は、血筋ではなく制度の隙間から出てきた人物でした。のちに身分にとらわれない人材登用を進める姿勢は、この出自と無関係ではないでしょう。
妻の梅子は、伊藤が若い頃に知り合った女性です。伊藤は華やかな交際でも知られ、その面での逸話には事欠きません。爵位を得て公爵家となった伊藤家は、養子の博邦が継ぎました。
松陰が見抜いていたもの
伊藤は吉田松陰の松下村塾に学びました。ただし塾での位置づけは、決して筆頭格ではありません。
松陰は伊藤について、才は劣り学問はまだ幼いが、人と人の間を動かす才があるという趣旨の評を残したと伝えられます。学識で高杉晋作や久坂玄瑞に及ばないことを認めたうえで、別の一点を見ていたのです。
そしてこの評は、そのまま的中しました。伊藤の生涯は、交渉し、調整し、まとめる仕事の連続です。憲法も内閣制度も、思想として掲げるだけでは形になりません。人を動かして制度に落とし込む力が要ります。
松陰は、後に総理大臣になる資質を、その言葉で言い当てていたことになります。
イギリスへの密航
文久 3 年(1863 年)、伊藤は井上馨ら 5 人とともに、イギリスへ密航します。国禁を犯す渡航でした。
そこで見たものが、彼を変えます。産業と海軍の実力を目の当たりにし、攘夷は不可能だと悟ったのです。
長州が外国艦隊と衝突しようとしていることを知ると、伊藤と井上は学業を中断して急ぎ帰国し、戦争を止めようと奔走しました。間に合わず、長州は四国連合艦隊に敗れます。しかしこの敗北が、長州を攘夷から開国・倒幕へと転換させました。
外を見た者が、内を変える。 伊藤の役回りは、このとき定まっています。
憲法を作る
明治政府で頭角をあらわした伊藤は、大久保利通の暗殺後、政府の中心に立ちます。
明治 15 年(1882 年)、彼は憲法調査のためヨーロッパへ渡りました。ここで学んだのは、主にドイツ(プロイセン)流の国家学です。君主に強い権限を残しつつ、議会と憲法を持つという形が、当時の日本にとって現実的だと判断しました。
帰国後、井上毅らとともに起草作業を進め、明治 22 年(1889 年)に大日本帝国憲法が発布されます。アジアで最初期の近代的成文憲法でした。
同時に伊藤は、憲法の運用を担う枢密院の初代議長にも就いています。作るだけでなく、動かすところまでを引き受けたわけです。
初代総理大臣として
明治 18 年(1885 年)、内閣制度が創設され、伊藤は初代内閣総理大臣に就任します。以後、通算 4 度にわたって首相を務めました。
第 2 次内閣のときには日清戦争が起こり、講和条約の交渉にあたっています。また晩年には政党の力を無視できないと考え、自ら立憲政友会を創設しました。藩閥政治の中枢にいた人物が、政党政治へ舵を切ったことになります。
ハルビンでの最期
明治 38 年(1905 年)、伊藤は韓国統監に就任します。日本の朝鮮半島への関与が深まっていく時期で、この立場は今日に至るまで評価の分かれるところです。
明治 42 年(1909 年)10 月 26 日、伊藤は満洲のハルビン駅で、安重根の銃弾に倒れました。68 歳。
農民の子として生まれ、密航して西洋を見て、憲法と内閣を作った男の生涯は、異国の駅頭で終わりました。
伊藤博文の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1841 年 | 周防国に農民の子として生まれる |
| 1857 年頃 | 吉田松陰の松下村塾に学ぶ |
| 1863 年 | イギリスへ密航。攘夷の不可能を悟る |
| 1871 年 | 岩倉使節団の副使として欧米へ |
| 1878 年 | 大久保利通の暗殺後、内務卿として政府の中心へ |
| 1882 年 | 憲法調査のため渡欧 |
| 1885 年 | 内閣制度を創設し、初代内閣総理大臣に就任(44 歳) |
| 1889 年 | 大日本帝国憲法発布 |
| 1900 年 | 立憲政友会を創設 |
| 1905 年 | 初代韓国統監に就任 |
| 1909 年 | ハルビン駅で狙撃され死去。68 歳 |
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