幕末の偉人

島田虎之助とは?勝海舟に剣と禅を教えた直心影流の剣客

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島田虎之助とは?勝海舟に剣と禅を教えた直心影流の剣客
島田虎之助 肖像画 / 出典: Wikimedia Commons Public domain

勝海舟に剣を教えた人物がいます。島田虎之助。「剣は心なり」と言い切った剣客でした。

目次

島田虎之助とは何をした人か

島田虎之助は、豊前中津藩(現在の大分県中津市)出身の剣客です。流派は直心影流

やったことは三つに絞れます。

第一に、江戸で男谷信友の高弟となったこと。 幕末の剣界で最高の使い手とされた男谷の門に入り、その筆頭格に位置づけられました。

第二に、浅草に道場を開いたこと。 天保 14 年(1843 年)、浅草新堀に自分の道場を構えます。

第三に、勝海舟を育てたこと。 幕末に江戸城無血開城を実現するあの勝が、若い頃に剣を学んだ相手です。

文化 11 年 4 月 3 日(1814 年 5 月 22 日)に生まれ、嘉永 5 年 9 月 16 日(1852 年 10 月 28 日)に没しました。満 38 歳です(享年は数えの 39)。

島田虎之助が九州から江戸へ出るまで

島田は中津藩士・島田市郎右衛門の子として生まれました。剣は郷里で学び、若い頃から九州でその名を知られていたと伝わります。豊前の天仲寺(現在の福岡県吉富町)で修練したという伝承も残っています。

そのまま地方の使い手で終わらなかったのは、江戸へ出たからです。当時の江戸には千葉周作の玄武館、斎藤弥九郎の練兵館、桃井春蔵の士学館という三大道場があり、全国から腕自慢が集まる場所でした。

そして島田は男谷信友と立ち合い、まったく歯が立たずに入門したと伝えられます。以後、男谷門下の筆頭として名を上げていきました。

島田虎之助と勝海舟の師弟関係

勝海舟は、島田の道場で剣を学んでいます。

勝は後年、島田について剣だけでなく禅を勧められたことを語っています。夜通し座禅を組み、稽古に戻る——という生活を、若い勝はこの師のもとで送りました。

勝が幕末に見せた胆力、たとえば西郷隆盛と差し向かいで江戸の運命を決めた場面について、本人はしばしば若い頃の剣と禅に結び付けて説明しています。

剣術の師が、政治家の胆を作ったという筋書きは、幕末には珍しくありません。山岡鉄舟榊原鍵吉も、同じ直心影流の系統から出ています。

島田虎之助の名言「剣は心なり」

島田の言葉として伝わるものに、こういう一節があります。

剣は心なり。心正しからざれば剣また正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ。

技の話をしていません。 剣を学ぶなら先に心を学べ、と言い切っています。

これは精神論というより、当時の剣術の実情への答えでもありました。幕末の道場は試合と流派の看板をめぐる競争の場になっており、勝ち負けだけを追う稽古が増えていました。島田はそこに「では何のために強くなるのか」を差し戻したわけです。

島田虎之助の最期

嘉永 5 年 9 月 16 日(1852 年 10 月 28 日)、島田は病で没しました。満 38 歳。

その翌年、ペリーが浦賀に来ます。島田は黒船来航を見ていません。 幕末という時代が始まる、その直前に死んだことになります。

弟子の勝海舟は、このとき満 29 歳。すでに蘭学を修めて私塾を開いており、師の死の三年後には長崎海軍伝習所へ送られます。

郷里の中津には島田の生誕地を示す碑が建てられ、いまも顕彰されています。

島田虎之助の年表

出来事
1814 年 5 月 22 日豊前中津藩士の子として生まれる(文化 11 年 4 月 3 日)
1830 年代九州で剣名を上げ、諸国を回って修行する
1830 年代後半江戸に出て男谷信友に入門し、高弟となる
1843 年浅草新堀に道場を開く(天保 14 年)
1840 年代勝海舟が門下に入る
1852 年 10 月 28 日病没(嘉永 5 年 9 月 16 日)。満 38 歳
1853 年師の死の翌年、ペリーが浦賀に来航する

師は男谷信友、弟子は勝海舟、同時代の江戸の道場については剣術道場をご覧ください。

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